琉球王国ができる前の沖縄本島は、各地の按司(あじ=地域のリーダー)たちがグスク(城)を構えて激しく争う、まさに戦国時代でした。やがて勢力は大きく3つにまとまります。北部を支配する「北山(ほくざん)」、中部を支配する「中山(ちゅうざん)」、南部を支配する「南山(なんざん)」です。この3つの国が、中国(明)の皇帝にご挨拶(朝貢)をして自分たちこそが沖縄のトップだとアピールしながら、互いに覇権を争う「三山時代(さんざんじだい)」が約100年も続いていました。
この三つ巴の争いに終止符を打ったのが、南山の小さな地域のリーダーだった尚巴志(しょうはし)という人物です。彼は非常に頭が良く、農民に鉄の農具を与えて農業を発展させ、貿易で力を蓄えました。そして1406年、なんと一番豊かだった「中山」の王様を倒し、自分の父親を新しい中山王にして実権を握ってしまいます!ここから、尚巴志の沖縄統一に向けた怒涛の快進撃がスタートするのです。
中山のパワーを手に入れた尚巴志は、1416年に北山の一番の拠点である難攻不落の「今帰仁城(なきじんぐすく)」を激戦の末に落として北山を滅ぼします。そして1429年、最後まで残っていた南山の王様を倒し、ついに沖縄本島を一つにまとめ上げました。これがテストに出る琉球王国(りゅうきゅうおうこく)の建国です!尚巴志は中国(明)の皇帝からも正式に「琉球の王様」として認められ、ここから約450年も続く輝かしい王国の歴史が始まりました。
琉球王国が国を豊かにするために選んだ作戦が、テスト頻出の中継貿易(なかつぎぼうえき)です。これは「Aの国で買ったモノを、Bの国に高く売る」という賢いビジネスモデルです。当時の中国(明)は「外国の船は勝手に中国に来て商売してはダメ!」という厳しいルール(海禁政策)を敷いていました。しかし琉球は中国から特別に貿易を許されていたため、「中国の品物(陶器や絹)」を「東南アジア」や「日本」に転売することで莫大な利益を独占できたのです。
琉球の船は、東シナ海を縦横無尽に走り回りました。東南アジアからは香辛料や染料、日本からは刀や扇子、中国からは生糸や陶磁器を仕入れ、それらをアジア中のお店で交換(転売)して巨万の富を築き上げます。琉球王国のお城にある鐘には「琉球はアジアの国々を結ぶ架け橋(万国津梁=ばんこくしんりょう)である」という誇り高い言葉が刻まれました。小さな島国が、賢いビジネスと外交によって東アジアのネットワークの中心になったのです。
中継貿易で得た莫大な富は、独自の華やかな文化を生み出しました。その象徴が、王国の政治と文化の中心である首里城(しゅりじょう)です。日本の城とは違い、中国の建築スタイルの影響を強く受けた鮮やかな朱色のデザインが特徴です。首里城の中では、中国の使者(冊封使)をもてなすための豪華な宴会が開かれ、琉球舞踊や三線(さんしん)の音楽など、日本と中国、東南アジアの文化がミックスされた素晴らしい「琉球文化」が花開きました。
尚巴志が建国した琉球王国は、平和で豊かな「大交易時代」を謳歌します。しかし、時代が下ってヨーロッパの船がアジアに進出してきたり、日本の戦国時代が終わって江戸時代になったりすると、中継貿易の利益は少しずつ減っていきました。そして1609年、日本の薩摩藩(鹿児島県)から軍事侵攻を受け、王国は存続を許されながらも事実上、薩摩藩の支配下に入ることになります。琉球の数奇な運命へと続く、歴史の巨大な出発点となりました。