1199年1月、鎌倉幕府を開いて武士の頂点に立った初代将軍・源頼朝が、突然この世を去りました。享年53歳。平氏を滅ぼし、奥州藤原氏も倒して全国を平定したカリスマの死は、あまりにも唐突でした。相模川で橋の完成記念式典に出席した帰りに馬から落ち(落馬)、それから間もなく体調を崩して出家し、わずか数日後に亡くなったと伝えられています。日本をまとめ上げた英雄の、あまりにもあっけない最期でした。
実は、頼朝の死因には大きな謎が隠されています。鎌倉幕府の公式な歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、なぜか頼朝が死ぬ前後の3年間ほどの記録がすっぽりと抜け落ちているのです。「本当にただの落馬だったのか?」「誰かに暗殺されたのではないか?」「怨霊の呪いではないか?」など、当時から様々な噂が飛び交いました。この「空白の記録」は、今でも歴史学者の間で議論が続く日本史の大きなミステリーとなっています。
絶対的なリーダーを失った幕府は、大パニックに陥ります。すぐに息子の源頼家(みなもとのよりいえ)が第2代将軍に選ばれましたが、彼はまだ18歳の若者でした。経験不足の頼家が独裁的な政治を行うことを不安視した有力な武士たちは、将軍の権力を制限するルールを作ります。これが、妻の北条政子の父である北条時政(ほうじょうときまさ)たち有力者13人で話し合って政治を決める「十三人の合議制」のスタートでした。
頼朝の死は、幕府内部における壮絶な権力争いのゴング(ドミノの1枚目)でもありました。「十三人の合議制」が始まったことで、将軍を差し置いて誰が幕府の実権を握るのかというサバイバルゲームが勃発します。やがて北条氏がライバルたちを次々と罠にはめて滅ぼし、実質的なトップ(執権)へと上り詰めていくことになります。頼朝の突然の死がなければ、のちの「承久の乱」に繋がる歴史も大きく変わっていたかもしれません。