平氏を滅ぼし、奥州藤原氏も倒して日本の軍事的な支配をほぼ完了させた源頼朝。しかし、彼にはまだ足りないものがありました。それは「天皇から正式に認められた、武士のトップとしての特別な肩書き」です。ただの武力を持った実力者ではなく、国から公式に認められた支配者になりたかった頼朝が、喉から手が出るほど欲しがった奇跡のタイトル、それが征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)でした。ここから、頼朝の最後にして最大の政治的ミッションが始まります。
そもそも「征夷大将軍」とは何でしょうか?元々は平安時代に、朝廷に逆らう東北地方の人々(蝦夷)を武力で平定するために、臨時に任命された軍隊のトップの役職でした。有名な坂上田村麻呂などが就いた役職です。しかし頼朝は、「全国の武士たちを束ね、自由に命令を下すことができる最高権力者」という全く新しい意味をこの肩書きに持たせようと計画しました。新しい時代、武士の世を堂々と作るための最強のライセンス(許可証)として、どうしてもこの称号が必要だったのです。
しかし、この頼朝の野望の前に立ちはだかったのが、当時の朝廷のトップである後白河法皇(ごしらかわほうおう)です。日本一の政治の天才でありタヌキオヤジとも呼ばれた法皇は、「頼朝にそんな強い権力を与えたら、朝廷の言うことを全く聞かなくなるぞ!」と大警戒。頼朝が何度「私を将軍にしてくれ」とアピールしても、のらりくらりと理由をつけて任命を拒否し続けました。武力では誰にも負けない頼朝でしたが、天皇という絶対的な権威には手が出せず、じっと耐える日々が続きました。
頼朝と後白河法皇のバチバチの心理戦が続く中、歴史が突然動きます。1192年の春、なんと最大のストッパーだった後白河法皇が病気で亡くなってしまったのです。法皇がこの世を去ったことで、京都の朝廷の中で頼朝の勢いを止められる人物は誰もいなくなってしまいました。朝廷の貴族たちは「今の頼朝を怒らせたら国が滅ぼされる!」と震え上がり、トントン拍子で話が進み始めます。頼朝にとっては、ずっと待ち望んでいた大チャンスがついに巡ってきた劇的な瞬間でした。
後白河法皇の死からわずか数ヶ月後の1192年7月12日。ついに少年天皇である後鳥羽天皇(ごとばてんのう)から、源頼朝を「征夷大将軍」に任命するという正式な命令(宣旨)が下されました。長年の夢が叶った頼朝は、これで名実ともに日本中の武士の頂点に立つトップ(武家の棟梁)として、国から公式に認められたことになります。日本中の人々が「これからは天皇や貴族ではなく、頼朝様を中心とする武士たちが国を動かしていくのだ」とハッキリと理解した記念すべき日です。
頼朝が征夷大将軍に任命されたことで、彼が開いた組織は正式に鎌倉幕府(かまくらばくふ)と呼ばれるようになります。「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という有名な語呂合わせは、この年の出来事から来ています。現在では「1185年(守護・地頭の設置)が幕府の実質的な成立」とする考え方が主流ですが、1192年の将軍任命によって「鎌倉幕府という武家政権のシステムが名実ともに完璧に完成した」という事実は揺るぎない、テストにも絶対出る特大ターニングポイントなのです。
将軍という絶対的な地位を手に入れた頼朝は、自分に従う武士たちを御家人(ごけにん)と呼び、特別な関係を結びました。将軍は御家人の領地を保障し、手柄を立てれば新しい土地を与える(御恩)。その代わり、御家人はいざという時に命がけで将軍のために戦い、京都や鎌倉を警備する(奉公)。この御恩と奉公(ごおんとほうこう)と呼ばれるギブアンドテイクの強い絆が、鎌倉幕府を支える強力なシステムとして本格的に稼働し始め、武士たちは将軍に絶対の忠誠を誓うようになりました。
頼朝が「征夷大将軍=武士のトップで国を治める人」というルールを作ったことは、日本の歴史において計り知れない影響を与えました。なぜなら、この後にできる室町幕府(足利氏)も、江戸幕府(徳川氏)も、すべて頼朝が作った「将軍になって幕府を開く」というシステムをそのまま真似したからです。1192年のこの出来事は、1867年の大政奉還で江戸幕府が終わるまで、約700年間も続く「武士の世」の絶対的な土台を築き上げた、まさに歴史の特大ドミノの1枚目だったのです。