江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、木造家屋が密集する江戸の町は火災が頻発していました。明暦の大火などの大惨事を経て、幕府は武士による消防組織(大名火消や定火消)を作っていましたが、彼らが守るのは主に江戸城や大名屋敷でした。庶民が住む広大な町人地を守るには、武士の消防隊だけでは圧倒的に人手が足りず、たびたび町は大火事に包まれて甚大な被害を出していました。
第8代将軍・徳川吉宗が享保の改革を始めると、南町奉行に任命された大岡忠相(おおおかただすけ)は江戸の防災体制の根本的な見直しに乗り出します。「武士に頼るのではなく、町人たちの手で自分たちの町を守らせよう」。忠相は、各町に対して火事の際に駆けつける人員や費用の負担を義務付け、庶民自身による画期的な消防組織の構築を目指したのです。
1718年に町火消(まちびけし)の制度がスタートし、1720年には隅田川の西側をより機能的に動かすため「いろは四十七組」として再編成されました。町を47のエリアに分け、それぞれに「い組」「ろ組」といった名前と独自の目印を持たせたのです。のちに本所・深川の16組も加わってさらに拡大し、江戸の町を網の目のようにカバーする強固な防災ネットワークが完成しました。
「いろは四十七組」の中には、あえて使われなかった「縁起の悪い文字」がありました。例えば、「ひ」は「火」を連想させ、「へ」は「屁(おなら)」でおかしく、「ら」は「隠語」に通じ、「ん」は終わりを意味するため避けられました。代わりに「百」「千」「万」「本」という縁起の良い漢字が使われるなど、江戸っ子らしい言葉遊びと験担ぎが組織名に反映されています。
当時の消防は、現代のようにポンプで水をかけて火を消すわけではありません。火の勢いが強すぎるため、燃えている家の周囲の家屋を鳶口(とびぐち)などの道具で素早く引き倒し、火が燃え移るのを防ぐ「破壊消防」が基本でした。燃え盛る炎のすぐ隣で、自分たちの町を守るために他人の家を躊躇なく壊すという、極めて危険で命がけの荒業だったのです。
この危険な破壊消防で大活躍したのが、普段は建築現場で高い足場を組む「鳶職(とびしょく)」の男たちでした。高い屋根に素早く登り、巨大な木材を正確に解体する技術と度胸を持つ彼らは、火消しに最も適した人材でした。町火消の中心メンバーとしてスカウトされた鳶職人たちは、火事のたびに危険な現場へ飛び込んでいく命知らずのプロフェッショナル部隊となりました。
各組には、自分たちのシンボルである「纏(まとい)」がありました。火事の現場に到着すると、屋根の上に立って纏を振り回し、「ここは俺たちの組が消す!」と猛烈にアピールします。もし纏が火の粉で燃えそうになっても、決して退くことは許されませんでした。纏持ちは組で一番の勇気と体力が求められる花形ポジションであり、江戸っ子たちの最高の憧れの的でした。
命がけで町を守り、粋な揃いの法被(はっぴ)を着ていなせに振る舞う町火消の男たちは、江戸の庶民にとってまさに「ヒーロー」でした。歌舞伎や浮世絵の題材としても大人気となり、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉を体現するスター的存在となります。時には他の組と手柄を争って大喧嘩をすることもありましたが、それすらも江戸っ子たちには頼もしく映ったのです。
町火消は誇り高いあまり、時には武士と衝突することもありました。有名な「め組の喧嘩」では、町火消のめ組と、大名お抱えの力士たちがプライドをかけて大乱闘を繰り広げました。身分が低い町人でありながら、武士にも物怖じしない彼らの反骨精神は、江戸の町を自分たちで守っているという強い「自治の精神」から生まれたものであり、庶民の社会的地位の向上を示していました。
徳川吉宗と大岡忠相が生み出した町火消のシステムは、幕末まで江戸の平和を支え続けました。自分たちの地域は自分たちで守るというこの「共助」の精神と組織の仕組みは、現代の日本全国にある「消防団」のルーツとなっています。単なる防災対策にとどまらず、巨大都市における住民の連帯と自治体制を確立したという点で、日本の社会史における歴史の決定的な契機となったのです。