1615年5月、大坂夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼした徳川家康は、「これでついに徳川の天下が確定した。次は、大名たちが二度と幕府に逆らえないような完璧なルールを作ろう!」と考えます。そして豊臣家滅亡からわずか2ヶ月後の7月、全国の大名を京都の伏見城に集め、第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の名前で新しい法律を発表しました。これがテストに絶対出る武家諸法度(ぶけしょはっと)です。
武家諸法度の記念すべき最初のバージョン(元和令)を作ったのは、家康のブレーン(知恵袋)であったお坊さんの金地院崇伝(こんちいんすうでん)です。全13カ条からなるこの法律の第1条には、「文武弓馬(ぶんぶきゅうば)の道、専ら相嗜むべき事」と書かれています。つまり、「武士たる者、学問(文)と武芸(武)の両方を一生懸命に勉強して鍛えなさいよ!」という、文武両道の基本方針が示されたのです。
しかし、幕府の本当の狙いは大名たちの「反乱の芽」を徹底的に摘み取ることでした。そこで「幕府の許可なく、自分のお城を勝手に修理したり新しく作ったりしてはダメ!(新規築城の禁止)」「大名同士が幕府にナイショで勝手に結婚して、仲間(同盟)を増やしてはダメ!」という、非常に厳しい禁止ルールを設けました。大名たちが軍事力を持ったり、グループを作って幕府に刃向かったりするのを未然に防ぐためです。
「もしこのルールを破ったらどうなるの?」その答えは、大名にとって死よりも恐ろしい改易(かいえき=お家取り潰し、領地の没収)でした。実際に数年後、豊臣秀吉の子飼いの大名だった福島正則(ふくしままさのり)が、台風で壊れた広島城の雨漏りを「幕府の許可を待たずに勝手に直した」というだけの理由で改易され、領地を全て奪われてしまいました。「ルール違反は絶対に許さない!」という幕府の恐ろしい本気度に、全国の大名たちは震え上がりました。
実は武家諸法度は一度作って終わりではありませんでした。将軍が新しく代わるたびに、全国の大名を集めて「このルールを絶対に守るように!」と念押しで読み聞かせ、さらに時代に合わせて内容をアップデートしていくというシステムでした。これにより、大名たちは将軍への絶対的な服従を毎回誓わされることになります。法律を使って大名たちを完全にコントロールする、江戸幕府の天才的な支配システムなのです。
アップデートの中でも一番有名で、テストに絶対出るのが1635年です。第3代将軍・徳川家光(いえみつ)が発表したバージョン(寛永令)で、あの参勤交代(さんきんこうたい)の制度が武家諸法度にバッチリと書き加えられました。「大名は1年ごとに江戸と自分の領地を行き来しなさい。妻と子供は人質として江戸に置いておくこと!」という超強力なルールが追加されたことで、幕府の大名支配システムはついにパーフェクトな完成を迎えたのです。
大名たちから見れば自由を奪われる息苦しい法律でしたが、この武家諸法度があったおかげで、大名同士が勝手に戦争をしたり、幕府に反乱を起こしたりすることが完全に不可能になりました。家康が仕掛けたこの法的な「ドミノ」は、血みどろだった戦国時代を完全に終わらせ、江戸幕府という約260年間も続く世界でも珍しい長期的な平和(パクス・トクガワーナ)を日本にもたらす、歴史の巨大な基礎工事となったのです。