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日米和親条約 締結 にちべいわしんじょうやく ていけつ

🕒 1854年03月03日
📍 場所: 神奈川県 武蔵国 横浜村(現在の神奈川県横浜市) 👤 関連: マシュー・ペリー,林復斎
1854年、再び日本にやってきたペリー率いるアメリカ艦隊の強い圧力により、江戸幕府がアメリカとの間で結んだ歴史的な条約です。これが日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)です。この条約により、日本は下田(静岡県)と箱館(北海道)の2つの港を開き、アメリカ船に水や食料、石炭を補給することを約束しました。これにより、江戸幕府が約200年以上も続けてきた鎖国(さこく)体制が完全に終わりを告げ、日本が世界の舞台へと引きずり出される「開国」の特大ドミノが倒れた超重要事件です。
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ペリー、怒涛の大艦隊で再来日

1853年に黒船で日本をパニックに陥れたアメリカの使節ペリーは、「来年また返事を聞きに来るぞ!」と言い残して去りました。しかし約束の1年を待たず、1854年の初めに再び江戸湾(東京湾)に現れます。しかも今回は、なんと軍艦7隻という前回を上回る超大艦隊!「さあ、国を開くのか、それとも戦争をするのか?」と、巨大な大砲を江戸の町に向けながら、幕府に対して強烈なプレッシャーをかけて返答を迫ってきたのです。
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幕府の苦悩「戦争か、平和か」

大艦隊を目の前にして、江戸幕府のトップである老中・阿部正弘(あべまさひろ)は頭を抱えました。当時の日本の武器では、最新鋭のアメリカ軍艦には絶対に勝てません。「もし断って戦争になれば、日本は清(中国)のように外国にボロボロにされてしまうかもしれない…」と、幕府のリーダーたちは恐怖しました。激しい議論の末、幕府は「戦争で国が滅ぶよりはマシだ」と判断し、ついに外国との交渉のテーブルにつく決断を下したのです。
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横浜村でのギリギリの交渉

交渉の舞台となったのは、当時は小さな漁村だった横浜村(現在の神奈川県横浜市)に急いで建てられた応接所でした。幕府側の代表である林復斎(はやしふくさい)とペリーは、言葉の壁を越えて激しい駆け引きを繰り広げます。ペリーは武力をチラつかせながら強気に要求を突きつけてきましたが、林復斎も「日本には日本の法律がある!」と堂々と反論。緊迫した空気の中、約1ヶ月にも及ぶギリギリの外交交渉が行われました。
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鎖国の終焉!日米和親条約

1854年3月3日、長くて苦しい交渉の末、ついに日本とアメリカの間で歴史的な条約が結ばれました。これがテストに絶対出る超重要キーワード日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)です。これにより、江戸幕府が約200年以上も続けてきた、外国との付き合いを厳しく制限する鎖国(さこく)のルールが完全に崩れ去りました。日本が世界に向けて重い扉を開いた、「開国」という歴史の特大ドミノが倒れた瞬間です。

テスト頻出!開かれた2つの港

この日米和親条約で最も重要な決定事項は、アメリカ船が太平洋を渡るための「休憩所」を作ったことです。具体的には、燃料となる石炭や、水、食料を補給するために、下田(しもだ:静岡県)と箱館(はこだて:北海道)の2つの港を開くことが約束されました。テストでは「どこの港が開かれたか?」が必ず聞かれるので、「下(下田)箱(箱館)和親条約」という語呂合わせで、2つの港の名前を絶対に覚えておきましょう!
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アメリカが求めた船員の保護

さらに条約では、アメリカの捕鯨船(クジラをとる船)に対する人道的なルールも決められました。当時、アメリカの船が日本の近くで嵐に遭って沈没しても、日本のルールでは「外国人は逮捕しろ!」となっていました。しかし条約により、「もしアメリカの船が遭難したら、日本人と同じように助けて、水や食料を与えますよ」と約束したのです。ペリーの一番の目的は、実はこの「遭難した船員の保護と燃料の確保」でした。
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隠された罠!最恵国待遇

しかし、この条約には日本にとって非常に不利な「罠」が隠されていました。それが「片務的最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)」です。これは「もし日本が他の国ともっと良い条件の条約を結んだら、自動的にアメリカにも同じ良い条件を適用するよ」というルールです。しかも日本からアメリカへは適用されない「片思い」のルール(片務的)だったため、ここから日本の苦しい「不平等条約」の歴史がスタートすることになります。
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貿易(商売)はまだお預け

アメリカは燃料の補給だけでなく、日本との「貿易(モノの売り買い)」も強く希望していました。しかし、幕府は「遭難した人を助けたり、水や薪をあげたりするのは人助けだから良いが、商売は絶対にしない!」と頑なに拒否しました。ペリーも「とりあえず港を開かせるのが先決だ」と判断し、今回は貿易を諦めました。つまり、日米和親条約の段階では、まだ外国との正式な「商売」はスタートしていなかったのです。
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ペリーからのハイテクな贈り物

条約交渉の合間、ペリーは幕府の役人たちにアメリカの最新技術を自慢するためのプレゼントを贈りました。実物の4分の1サイズの「蒸気機関車の模型」や、遠くの人と一瞬で連絡が取れる「電信機(モールス信号)」です。実際に煙を上げて走る機関車に乗せてもらった日本人は、見たこともない西洋の凄まじい科学技術に度肝を抜かれました。「このままでは日本は世界から取り残される!」と、強烈なカルチャーショックを受けたのです。
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開国の衝撃!幕末の動乱へ

アメリカと日米和親条約を結んだ江戸幕府は、「アメリカだけ特別扱いはズルい!」と押し寄せてきたイギリス、ロシア、オランダとも次々と同様の条約を結ぶことになりました。そして4年後の1858年、ついに貿易を認める日米修好通商条約が結ばれ、日本の経済と社会は大混乱に陥ります。この「開国」の衝撃が引き金となり、外国を追い払おうとする人々と幕府を守ろうとする人々が激突する、血みどろの幕末へと突入していくのです。
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