13世紀、ユーラシア大陸のほとんどを支配する世界最強の国が誕生しました。チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが率いるモンゴル帝国(元)です。フビライは「日本の黄金が欲しい!とりあえず俺の家来になれ!」と、鎌倉幕府へ何度も脅迫の手紙を送ってきました。しかし、当時の幕府の若きトップ(執権)・北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを完全に無視。「日本のプライドを見せてやる!」と、真っ向から戦う決意を固めたのです。
1274年10月、ついにフビライの命令で約3万人の元・高麗(韓国)の連合軍が日本へ出発しました。数百隻もの巨大な船団が最初に襲いかかったのは、九州の玄界灘に浮かぶ対馬(長崎県)と壱岐(いき)です。現地の武士たちは必死に抵抗しましたが、圧倒的な数の差の前に全滅。島民たちは恐ろしい方法で殺されたり、捕虜として船に連れ去られたりという悲惨な目に遭いました。そして元軍はいよいよ九州本島の博多湾へと迫ります。
博多湾に上陸した元軍に対し、日本の武士たちはいつもの戦い方で挑みます。「やあやあ我こそは!」と大声で名乗りを上げ、1対1の正々堂々とした一騎打ちをしようとしたのです。しかし、元軍にはそんな日本のルールは全く通じません!名乗っている最中に、銅鑼(どら)や太鼓の音とともに集団で一斉に襲いかかり、毒を塗った短い矢を雨のように降らせてきました。戦い方の違いにより、武士たちは大パニックに陥ってしまいます。
さらに武士たちを恐怖のどん底に突き落としたのが、元軍が使った最新兵器「てつはう(鉄砲)」です。これは今の銃のようなものではなく、火薬を詰めた丸い爆弾(手榴弾)でした。当時の日本には「火薬を爆発させる」という技術がなかったため、突然「ドカーン!」と鳴り響く大音響と火柱に、武士だけでなく乗っていた馬もパニックになって暴れ出しました。未知の兵器と戦術の前に、日本の防衛線はズタズタに引き裂かれていきます。
この大ピンチの中でも、武士の意地を見せて大活躍した男たちがいます。その一人が、肥後国(熊本県)の武士・竹崎季長(たけざきすえなが)です。彼は「手柄を立ててご褒美をもらうぞ!」と、味方が止めるのも聞かずに元軍のド真ん中へ突撃!馬を撃たれ血だらけになりながらも戦い抜きました。彼が自分の活躍を絵師に描かせた『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』は、当時の戦いの様子を知る歴史的な超重要アイテムとして現代に残っています。
日本軍は内陸の拠点である大宰府(だざいふ)を守るために一旦後退し、翌日の決戦に備えました。しかし翌朝、海を見て武士たちはビックリ!なんと博多湾を埋め尽くしていたはずの元軍の船が、一夜にして忽然と姿を消していたのです。「神風(暴風雨)が吹いて船が沈んだ」という伝説が有名ですが、実際には「予想以上の武士の抵抗で矢が尽きた」「司令官がケガをした」などの理由で、元軍が自ら撤退を決めたという説が有力です。
こうして日本は1度目の侵略(文永の役)をギリギリのところで凌ぎました。幕府は「また来るかもしれない!」と備え、博多湾の沿岸に約20kmにも及ぶ巨大な石の壁(石塁)を急ピッチで作らせます。しかし、これが鎌倉幕府滅亡への特大ドミノの始まりでした。この戦いは「外国から国を守る防衛戦」だったため、幕府は勝っても奪う土地がなく、命がけで戦った武士たちへ十分なご褒美(御恩)をあげることができなかったのです。