飛鳥時代が始まる少し前、政治の実権は蘇我馬子(そがのうまこ)という強力な豪族が握っていました。彼は仏教を取り入れることを巡ってライバルの物部氏を滅ぼし、絶大な権力を手に入れます。しかし、馬子の力が強くなりすぎたことで、天皇との関係が悪化し、朝廷の内部ではドロドロとした権力争いが続くようになっていました。政治は非常に不安定で、いつ大きな内乱が起きてもおかしくない危険な状態だったのです。
592年、日本の歴史上でも類を見ない大事件が起きます。なんと、権力を振るう馬子に不満を持っていた当時の崇峻天皇(すしゅんてんのう)が、馬子の手下によって暗殺されてしまったのです!家臣がトップである天皇を殺すという異常事態に、朝廷は大パニックに陥りました。「このままでは国が滅んでしまうかもしれない」。誰もが次の天皇になりたがらない、絶体絶命の政治的空白が生まれてしまったのです。
混乱を収めるため、馬子が「次の天皇に」と目をつけたのが、自分の姪であり、以前の天皇(敏達天皇)の奥さんでもあった豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと:のちの推古天皇)でした。彼女は39歳で、とても美しく、誰からも尊敬される人柄でした。「私のような女性には重荷です」と彼女は何度も断りましたが、国の危機を救うため、ついに周囲の説得に折れて天皇になることを決意します。
こうして592年12月、日本史上初となる女性の天皇、推古天皇が誕生しました。世界的に見ても、東アジアで最初の女性君主と言われています。「男性の跡継ぎが決まるまでのピンチヒッター」として選ばれた面もありましたが、彼女の持つ高い身分と温厚な人柄は、殺伐としていた朝廷の空気を一気に和らげました。暗殺事件でバラバラになりかけていた人々の心は、彼女の即位によって再び一つにまとまり始めたのです。
天皇になったとはいえ、激動の時代に一人で政治を行うのは困難でした。そこで推古天皇は、自分を助けてくれる優秀なパートナーとして、20歳の若き天才・聖徳太子(しょうとくたいし:厩戸皇子)を摂政(せっしょう:天皇の代わりに政治を行う役職)に大抜擢します。太子は推古天皇の甥にあたり、非常に聡明で仏教にも詳しい人物でした。この絶妙な人事が、飛鳥時代の歴史を劇的に動かしていくことになります。
こうして、天皇としての権威を持つ推古天皇、抜群の頭脳と政治力を持つ聖徳太子、そして絶大な経済力と武力を持つ蘇我馬子という、三人による強力なタッグ(トロイカ体制)が完成しました。時に意見がぶつかることもありましたが、推古天皇が上手くバランスを取り、三人は協力して日本の国づくりを進めました。一人の独裁ではなく、それぞれの長所を活かしたこの体制が、日本を大きく成長させる原動力となったのです。
三人が目指したのは、争いのない平和な国でした。そのために取り入れたのが、大陸から伝わったばかりの「仏教」です。推古天皇は仏教を深く信仰し、飛鳥寺(法興寺)などの立派なお寺を次々と建てさせました。仏の教えによって人々の心を一つにし、天皇を中心にまとまる国を目指したのです。この時代に花開いた、仏教を中心とする国際色豊かで華やかな文化を飛鳥文化(あすかぶんか)と呼びます。
推古天皇のサポートのもと、聖徳太子は次々と新しいルールを作りました。家柄に関係なく才能ある人物を役人に採用する冠位十二階(かんいじゅうにかい)や、役人としての心構えを示した十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)の制定です。これらは「力ずくの豪族の政治」から、「法律やルールに基づいた天皇中心の政治」へと国をレベルアップさせるための、非常に重要で画期的な改革でした。
国内の改革だけでなく、外交でも大きな動きがありました。中国の巨大帝国「隋(ずい)」に対等な関係を求めるため、小野妹子(おののいもこ)らを遣隋使(けんずいし)として派遣したのです。推古天皇からの手紙には「日出づる処の天子より…」と書かれており、隋の皇帝を激怒させましたが、日本の独立と誇りを示す強気な外交でした。結果的に最新の文化や制度を日本に持ち帰ることに大成功します。
「ピンチヒッター」として即位した推古天皇でしたが、その治世はなんと36年にも及びました。彼女の優れた調整力と包容力がなければ、聖徳太子の才能も蘇我馬子の力も、国づくりには活かされなかったでしょう。彼女が在位したこの時代は、日本がただの豪族の集まりから、法と仏教に基づく近代的な国家へと生まれ変わる歴史の決定的な分岐点であり、その後の日本のあり方を定めた偉大な足跡なのです。