1221年の「承久の乱」で幕府が朝廷に大勝利すると、負けた貴族たちの土地が大量に没収されました。そこに手柄を立てた東日本の武士たちが「新補地頭(しんぽじとう)」として西日本へ大移動してきます。すると、「ここから先は俺の土地だ!」「いや、昔から俺の領地だ!」と、武士同士や地元の住民との間で、土地の境界線や収入をめぐる激しい裁判トラブルが日本中で急増してしまったのです。幕府の裁判所は毎日大パニックになっていました。
困ったのは幕府のトップである第3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)です。当時の日本には、昔からある貴族の法律(律令や公家法)しかありませんでした。しかし、この法律は難しすぎて武士のリアルな生活とは全く合っておらず、急増する土地トラブルの裁判基準として使い物にならなかったのです。「貴族のルールでは武士の喧嘩は裁けない。我々武士のための新しいルールが絶対に必要だ!」泰時はそう決意し、法律作りをスタートさせます。
新しい法律を作るにあたり、泰時が最も大切にしたのが道理(どうり)という考え方です。道理とは「親を大切にする」「嘘をつかない」「約束を守る」「ひいきをしない」といった、武士社会の中で誰もが「そりゃそうだよね」と納得する当たり前の常識や道徳のことです。中国の難しい法律をそのままパクるのではなく、武士たちが長年培ってきたこの「武士のリアルな常識」を、そのまま裁判の基準(ルール)にしてしまったのが画期的なポイントでした。
さらに泰時は、当時の武士たちの多くが難しい漢字(漢文)をスラスラと読めないことをよく分かっていました。そのため、御成敗式目は学者しか読めないような難解な文章ではなく、武士たちが日常的に使っている分かりやすい言葉で書かれました。「法律を知らないせいで損をする人が出ないように。誰が読んでも理解できて、誰もが公平に裁判を受けられるように」という、泰時の非常に優しく実用的なリーダーシップが込められていたのです。
テストでよく聞かれる超重要ポイントが「全何カ条ですか?」という問題です。答えは「51カ条」。実はこの数字には深い秘密があります。聖徳太子が作った有名な「十七条の憲法」をリスペクトして、その「17」という数字を3倍して「51」にしたと言われているのです。昔の偉大な政治家にあやかって、「いつまでもみんなに守られる立派な法律にしたい」という泰時の強い願いと、幕府の権威を高めるための工夫が込められていました。
この法律のすごいところは、現代の私たちが読んでも驚くほど進んだルールがあったことです。たとえば「女性の財産相続」がハッキリと認められていました。夫が亡くなったり、もし離婚したりしても、女性が自分自身の土地や財産をしっかりと持つことが法律で守られていたのです。男尊女卑が当たり前だった当時の世界的に見ても、非常に画期的でフェアなルールでした。武士社会のリアルな実態に合わせて、合理的に作られていた証拠です。
北条泰時が作ったこの御成敗式目(貞永式目)は、あまりにも完成度が高く実用的だったため、鎌倉時代が終わったあとも武士たちの間でリスペクトされ続けました。のちの室町幕府や戦国大名、さらには江戸幕府の時代になっても「武家法の基本(絶対的バイブル)」として大切に受け継がれ、なんと約600年もの間、日本の武士社会を根底から支え続ける超ロングセラーの法律になったのです。まさに日本史の巨大な柱と言えるでしょう。