8世紀に完成した大宝律令や養老律令によって、日本は法律で治められる国になりました。しかし、時間が経って平安時代に入ると、当時の古い法律と実際の社会の状況に少しずつズレが生じ始めます。時代が変われば人々の生活も変わり、昔のルールだけでは裁ききれない新しいトラブルや犯罪が増えていきました。国家の基本となる法律が使い物にならなくなれば、政治は立ち行きません。政府は、古い法律を現代風にアップデートする必要に迫られていました。
そこで政府は、基本の法律(律令)をイチから作り直すのではなく、追加のルールを次々と発表して対応することにしました。この時、元の法律を修正したり補足したりする追加の法令を「格(きゃく)」と呼びます。さらに、法律を現場でどう運用するかという細かいマニュアルや手続きのルールを「式(しき)」と呼びました。現代で言えば、基本の憲法に対して、新しい法律を追加したり、役所の細かい運用マニュアルを作ったりするのと同じ工夫です。
「格」と「式」を追加していく作戦は、最初のうちはうまくいきました。しかし、問題が起きるたびにその都度新しいルールを発表し続けたため、次第にとんでもないことになります。何十年もの間に膨大な数の追加ルールやマニュアルが山のように積み重なってしまい、「一体どのルールが一番新しくて正しいのか?」が誰にもわからなくなってしまったのです。現場の役人たちは混乱し、裁判や政治のスピードが著しく遅くなるという大問題が発生しました。
このルール乱立による大混乱を重く見たのが、当時のトップである嵯峨天皇(さがてんのう)です。彼は天皇の命令がスムーズに全国に届くような、力強く効率的な政治を目指していました。そのためには、バラバラに散らかった法律を一つの公式ルールブックとして綺麗に整理整頓することが絶対に必要だと考えたのです。嵯峨天皇は、信頼する優秀な部下たちに「今までの追加ルールとマニュアルをすべて集めて、使いやすい法令集を作りなさい」と重要な命令を下しました。
この国家の巨大な整理整頓プロジェクトのリーダーに大抜擢されたのが、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)です。彼は嵯峨天皇の秘書のような役割(蔵人頭)を務め、天皇から絶大な信頼を寄せられていた非常に優秀な政治家でした。冬嗣は有能な学者や役人たちを集め、過去100年分もの膨大な記録の中から、現在でも使えるルールと、もう古くて使えないルールを一つ一つ丁寧に仕分けしていくという、途方もない地道な作業を強力なリーダーシップで進めていきました。
冬嗣たちの作業は困難を極めました。古い記録の山から法令を探し出し、矛盾しているルールがあれば、どちらが正しいのかを議論して決めなければならなかったからです。しかし、彼らは国家のシステムを立て直すという強い使命感を持って、何年もの歳月をかけてこの大事業に取り組みました。役所の担当ごとにルールを細かく分類し、誰が読んでも「自分が今どういう手続きをすればいいのか」がすぐに分かるような、画期的な整理方法を採用して法令集をまとめ上げていきました。
そして820年(弘仁11年)、藤原冬嗣らの長年の努力がついに実を結びます。整理された新しい法令集が嵯峨天皇に提出され、無事に完成したのです。当時の元号である「弘仁(こうにん)」を取って、追加ルールの集大成である「弘仁格」と、マニュアルの集大成である「弘仁式」を合わせ、これを『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』と呼びます。バラバラだった日本の法律が、天皇公認の公式な「最新版ルールブック」として、ついに一つに束ねられた歴史的な瞬間でした。
『弘仁格式』が完成し、全国の役所に配られたことで、朝廷の仕事の効率は劇的にアップしました。役人たちは「このルールブックを見れば、すべてが正しく載っている」と安心して仕事ができるようになり、裁判の判決もスピーディーで公平なものになったのです。法律の混乱という長年のストレスが解消されたことで、嵯峨天皇が目指していた天皇中心の強力で安定した政治体制が、より確固たるものとしてスムーズに機能し始めることになりました。
この『弘仁格式』の完成は、後世の政治にも大きな影響を与えました。時代がさらに進むと、これに続いて清和天皇の時代の『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』、醍醐天皇の時代の『延喜格式(えんぎきゃくしき)』という新しい法令集が次々と作られることになります。これら3つの時代に編纂された格式を合わせて、歴史用語で「三代格式(さんだいきゃくしき)」と呼びます。弘仁格式は、この素晴らしい国家システムの第一号という栄誉ある法令集なのです。
基本となる法律(律令)を丸ごと変えるのは大変ですが、「格」と「式」という形で時代に合わせて柔軟にシステムをアップデートしていく。この賢い手法を確立した『弘仁格式』の編纂は、日本が法治国家としてのシステムを維持し続けるための決定的な契機となりました。藤原冬嗣らの地道な整理整頓の努力が、平安時代の政治を安定させ、のちの藤原北家が権力を握っていく歴史の分岐点となる基盤を作り上げたと言っても過言ではありません。