奈良時代に作られた大宝律令などの基本の法律(律令)は、時間が経つにつれて「今の時代に合わない!」というバグがたくさん出てきました。そこで、元の法律はそのまま残しつつ、後から追加で出した細かいルールを「格(きゃく)」、法律を実際に使うための細かいマニュアルや手続きを「式(しき)」と呼び、これらをまとめて「格式」としてアップデートしながら使っていました。
このアップデート作業は、平安時代の間に大きなものが3回行われました。「弘仁(こうにん)格式」「貞観(じょうがん)格式」、そして最後の3回目が今回の延喜格式(えんぎきゃくしき)です。これら3つを合わせて「三代格式(さんだいきゃくしき)」と呼び、テストによく出る重要キーワードです。延喜格式は、これまでの全てのルールを完璧に整理してまとめ上げた、いわば「平安時代の六法全書・完全版」でした。
この延喜格式を作るプロジェクトは、醍醐天皇の命令で天才政治家・藤原時平(ふじわらのときひら)がリーダーとなって905年にスタートしました。しかし、途中で時平が亡くなってしまい、弟の藤原忠平(ふじわらのただひら)が引き継いで、927年にようやく一応の完成を見ます。ところが「もっと完璧にしよう!」と何度も何度も修正を繰り返したため、実際に法律として使われ始める(施行される)のは、作り始めてから約60年も経った967年のことでした。
延喜格式の中で、特に有名なのが「延喜式(えんぎしき)」の「神名帳(じんみょうちょう)」というリストです。ここには、当時の朝廷が認めた全国の重要で格式の高い神社(約3000社)がリストアップされていました。現代でも、歴史のある古い神社に行くと「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」という石碑が立っていることがありますが、これは「1000年以上前の延喜式のリストに載っているくらい、由緒正しくスーパーすごい神社なんですよ!」という証拠なのです。
60年もかけて作られた最高の法律集である延喜格式でしたが、皮肉なことに、これが施行された10世紀の後半には、すでに「ルールを作って国を治める」という古い律令制のシステム自体が限界を迎えてボロボロになっていました。この後、政治の実権は「藤原氏の摂関政治」や「地方の武士たち」へと移っていきます。延喜格式は、かつて天皇が法律で日本をガッチリと支配していた「律令国家」が放った、最後にして最大の輝きだったのです。