993年頃、九州地方である恐ろしい疫病が発生しました。それが高熱と全身の激しい湿疹を伴う天然痘(てんねんとう)です。当時の人々はこれを「もがさ」や「疱瘡(ほうそう)」と呼び、特効薬も治療法もないこの未知の病を「悪い鬼の仕業」として極度に恐れました。目に見えないウイルスは、商人や役人など人々の移動ルートに乗って徐々に東へと広がり、やがて日本の政治と文化の中心である平安京(京都)へとその鋭い牙を剥くことになります。
994年の春から夏にかけて、天然痘はついに平安京の内部で爆発的に流行し始めます。人口が密集して暮らす都の人々の間で感染はあっという間に広がり、街角には病に倒れた人々が溢れかえりました。看病する者も次々と感染する恐ろしさから、家族を見捨てて逃げ出す人も続出するほどでした。一説には、当時の京都の人口の約半分がこの疫病で命を落としたとも言われており、華やかな貴族の都はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化してしまったのです。
このウイルスの猛威は、高い塀と立派な屋敷に守られて贅沢な暮らしをしていたはずの貴族たちにも容赦なく襲いかかりました。歴史の記録によれば、朝廷の政治を担うトップクラスのエリート貴族だけでも60人以上が次々と病死しています。医学が未発達だった当時、貴族たちは「これは政治の争いで敗れた者たちの怨霊(おんりょう)の祟りだ!」と大パニックに陥り、お寺でお経を読んだり祈祷を行ったりと、ただ神仏の力にすがるしかありませんでした。
実務を担当する中堅の役人たちも大量に亡くなったため、朝廷の行政システムは完全にストップしてしまいます。税金の計算や地方への命令の手配もできなくなり、国の政治機能は麻痺状態に陥りました。さらに、都の治安を守る警察組織の役人までもが倒れたため、平安京内では強盗などの凶悪な犯罪が急増します。疫病による死の恐怖だけでなく、社会秩序の崩壊という二次災害が、生き残った人々をさらに深い絶望の淵へと突き落としていったのです。
当時、朝廷のトップである関白(かんぱく)として絶大な権力を握っていたのが藤原道隆(ふじわらのみちたか)でした。しかし、この疫病が蔓延する激動の最中、995年に道隆は病によって急死してしまいます。道隆の死により、彼の息子である伊周(これちか)が順当に次のトップになるかと思われました。しかしここで、道隆の弟である道兼(みちかね)が「次は自分が関白になる!」と強引に名乗りを上げ、ドロドロの後継者争いが勃発したのです。
激しい権力闘争の末、弟の藤原道兼が見事に関白の座を射止めました。しかし、ここで天然痘の恐ろしい牙が新トップの彼を襲います。念願の地位に就いた直後、道兼は天然痘に感染して倒れ、就任からわずか数日という短さでこの世を去ってしまったのです。あまりにも短い在任期間だったため、彼は後に「七日関白(なのかかんぱく)」と呼ばれることになります。最高権力者が立て続けに亡くなったことで、朝廷の政治的な混乱は一気に頂点に達しました。
兄の道隆と道兼が疫病などで相次いで亡くなったことで、藤原氏のトップの座は完全に宙に浮きました。ここで一気に政治の表舞台へと押し出されたのが、彼らの末の弟(五男)である藤原道長(ふじわらのみちなが)です。道長は優秀でしたが、上に権力を持った兄がたくさんいたため、本来なら絶対にトップになれる立場ではありませんでした。しかし、疫病による次々の死という予期せぬ事態が、道長に天下を取る絶好のチャンスをもたらしたのです。
トップの座を巡って、藤原道長と、亡き兄・道隆の息子である伊周(これちか)の間でバチバチの権力闘争が始まります。しかし、運命の女神は道長に微笑みました。ライバルの伊周が、女性トラブルから天皇の親戚を弓で射るという前代未聞の大事件(長徳の変)を起こし、自滅して地方へ左遷されたのです。邪魔者が完全にいなくなった道長は、朝廷の実権を掌握します。疫病がもたらした政治の空白を、したたかな道長が見事に埋め切った瞬間でした。
権力を握った道長は、自分の娘たちを次々と天皇のお后(おきさき)として嫁がせ、やがて天皇の祖父となることで絶対的な権力を誇る摂関政治(せっかんせいじ)の全盛期を築き上げます。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な和歌は、この圧倒的な栄華の中で詠まれたものです。もし上の兄たちが天然痘で死んでいなければ、この華やかな道長の時代は永遠に日本史に刻まれなかったかもしれません。
994年を中心に起きた天然痘の大流行は、数え切れないほどの命を奪った悲惨な大災害でした。しかし同時に、当時の権力者たちを一掃し、平安時代の政治的な勢力図をガラリと書き換える役割を果たしました。目立たない五男だった藤原道長を歴史の主役に押し上げ、国風文化が最も華やいだ時代を生み出したのです。目に見えない小さなウイルスが、人間の政治や社会のあり方を根底から変えてしまうことを証明した、日本史における重大な歴史の分岐点となりました。