秀吉が新しいお城の場所に選んだのは、かつて浄土真宗の巨大なお寺である石山本願寺があった場所でした。ここは海と川に囲まれていて敵から攻められにくく、しかも京都や西日本へ船で荷物を運ぶのに最適な「奇跡の立地」でした。かつて織田信長もこの場所を喉から手が出るほど欲しがり、10年もの長い間戦い続けて(石山合戦)ようやく手に入れた、超一等地の不動産だったのです。
天下人を目指す羽柴秀吉は、この場所に「誰も見たことがないようなド派手なお城」を建てるよう命じました。何万人もの労働者を動員して巨大な石垣を積み上げ、お城の屋根には金箔(きんぱく)を貼ったピカピカの瓦(金箔瓦)を敷き詰めました。太陽の光を浴びて黄金に輝く巨大な天守閣は、全国の大名たちに「秀吉には逆らえない…」と思わせるほどの圧倒的なパワーと財力を見せつけていたのです。
秀吉が作ったのはお城だけではありませんでした。お城の周りに商人や職人をたくさん呼び集め、川を整備して巨大な「城下町」を作りました。日本中からお米や特産品が水路を使って大坂に集まるようになり、大坂はあっという間に日本で一番活気のある大商業都市へと成長します。のちに江戸時代になっても、大坂が「天下の台所」と呼ばれて経済の中心地であり続けたのは、この時に秀吉が作った土台があったからです。
実は、私たちが今の大阪城公園で見ているお城は、秀吉が作った「豊臣の大坂城」ではありません。秀吉の大坂城は、のちに徳川家康との戦い(大坂夏の陣)で跡形もなく焼け落ちてしまいました。さらに家康は「豊臣の記憶を完全に消し去る!」と、焼け跡の上に大量の土をかぶせて埋めてしまい、その上に全く新しい「徳川の大坂城」を建て直したのです。秀吉の黄金の城は、今も大阪の街の深い地中に眠り続けています。