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六波羅探題 設置 ろくはらたんだい せっち

🕒 1221年 🐎 鎌倉時代
📍 場所: 京都府 京都・六波羅 👤 関連: 北条義時,北条泰時
1221年、承久の乱で朝廷(天皇側)に大勝利した鎌倉幕府が、京都に設置した超強力な監視機関です。これが六波羅探題(ろくはらたんだい)です。今まで朝廷の顔色をうかがっていた幕府ですが、反乱を起こした後鳥羽上皇を島流しにした後、「もう二度と朝廷に反乱を起こさせない!」と、京都の朝廷を24時間体制で厳しく監視し、西日本の武士たちを取り締まるために作られました。この機関の設置により、幕府の権力は朝廷を完全に上回り、西日本にも強い支配力を及ぼす歴史の大きなドミノとなりました。
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朝廷に大勝利!幕府の逆襲

1221年、朝廷のトップである後鳥羽上皇が「鎌倉幕府をぶっ潰し、天皇中心の世を取り戻す!」と兵を挙げた承久の乱(じょうきゅうのらん)。しかし、北条政子の名演説で団結した幕府軍は、圧倒的な力で朝廷軍を打ち破りました。勝った幕府は、なんと反乱の首謀者である後鳥羽上皇を隠岐(島根県)へ島流しにしてしまいます。「神様」のように絶対的だった朝廷のトップを武士が処罰するという、日本の歴史の常識が完全にひっくり返った大事件でした。
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二度と反乱は起こさせない!

承久の乱を力で鎮圧した幕府のリーダーである第2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)は、冷静にこう考えました。「天皇や上皇たちがまたコソコソと幕府を倒す反乱を企てるかもしれない。二度と刃向かえないよう、徹底的に見張る必要がある!」そこで義時は、乱の事後処理のために京都に派遣していた自分の息子や弟をそのまま京都に留まらせ、朝廷の動きを24時間体制で厳しく監視する新しい役所を作りました。これが六波羅探題(ろくはらたんだい)の始まりです。
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名前の由来と「六波羅」の場所

そもそも「六波羅」というのは京都の鴨川東岸にある地名です。実はここ、かつて平清盛たち平氏一族が巨大なお屋敷を構えていた最大の拠点でした。平氏が滅亡した後、源頼朝がその土地を没収し、幕府の京都での拠点(京都守護)として使っていた歴史ある場所なのです。幕府はこの六波羅の広大な土地を「北」と「南」の二つに分け、それぞれにトップを置いて厳重な監視体制を敷きました。ここから朝廷に睨みを効かせる、幕府の超強力な出先機関となったのです。
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西日本の武士たちを力で束ねる

六波羅探題の重要な役割は、朝廷の監視だけではありません。承久の乱で朝廷側について敗北した西日本の貴族や武士たちの領地は、すべて幕府に没収されました。その約3000ヶ所にも及ぶ膨大な土地には、戦いで手柄を立てた東日本の御家人たちが「新補地頭(しんぽじとう)」として新しく配属されました。六波羅探題は、この西日本に大移動してきた新しい武士たちをまとめ上げ、幕府の支配ルールを西日本全体に力強く浸透させるという超重要な任務も持っていたのです。

北条氏の「超エリートコース」

六波羅探題の初代トップである「北方」と「南方」に就任したのは、義時の息子である北条泰時(ほうじょうやすとき)と、義時の弟である北条時房でした。これ以降、六波羅探題のトップには北条氏の一族の中でも特に優秀で将来有望な人物が選ばれるようになります。ここで京都の複雑な政治や西日本のまとめ役として経験を積み、しっかり実績を挙げた者が、鎌倉に戻って幕府のトップである「執権(しっけん)」になるという、北条氏の出世の超エリートコースとなっていきました。
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100年後の最期、幕府とともに

朝廷を震え上がらせ、西日本の武士たちを力で支配した六波羅探題ですが、その終わりは100年以上経ってから唐突にやってきます。1333年、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起こると、幕府の命令で反乱を鎮圧しに来たはずの最強武将・足利尊氏(あしかがたかうじ)が、なんと天皇側に寝返ってしまいました!尊氏の大軍に背後から攻め込まれた六波羅探題はあっけなく陥落し、滅亡。その直後に鎌倉にある幕府の本体も新田義貞によって滅ぼされ、時代は転換します。
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