江戸時代の中頃、幕府の裁判(公事)には大きな問題がありました。犯罪に対する明確な刑罰のルールブックがなかったため、担当する奉行(裁判官)の気分や個人的な考え方によって、同じ罪でも判決が重くなったり軽くなったりしていたのです。「あの奉行は厳しいから死刑だ」「こっちの奉行なら追放で済む」。こうした不公平な裁判に対する庶民の不満は高く、裁判にかかる時間も長引くばかりでした。
この裁判の混乱を解決しようと立ち上がったのが、第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)です。彼は幕府の政治や財政を立て直す享保の改革(きょうほうのかいかく)を進める中で、「公平でスピーディな裁判を行うための、統一されたルールブックが必要だ」と強く感じました。吉宗は有能な役人たちを集め、幕府が始まって以来となる本格的な法典の作成を命じたのです。
この重大なプロジェクトの中心となったのが、時代劇でも「大岡越前」として有名な南町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)です。彼は江戸の町の治安を守り、数々の難事件を裁いてきた超一流の実務家でした。忠相らは、幕府が過去に行ってきた膨大な裁判の記録(判例)を一つ一つ調べ上げ、「この犯罪にはこの刑罰」という基準を整理していく、気の遠くなるような編纂作業に取り掛かりました。
数年の苦労の末、1742年に完成したのが公事方御定書(くじかたおさだめがき)です。これは上巻と下巻の2冊からなる法律のセットでした。上巻には、警察の決まりや幕府の基本的な法令がまとめられました。そして下巻には、殺人や窃盗など具体的な犯罪に対してどのような刑罰を与えるかという基準が、全103カ条(のちに改訂)にわたって細かく規定されました。
この法典の下巻は、およそ100カ条の法律から成り立っていたため、当時の役人たちの間では御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)という通称で呼ばれました。ここには、「人を殺せば死刑」「火つけ(放火)も死刑」「親不孝は追放」など、犯罪の種類に応じた刑罰の重さが明確にリストアップされており、奉行たちはこの基準に照らし合わせて判決を下すようになったのです。
この法典ができたことで、江戸幕府の裁判は劇的に変わりました。どの奉行が担当しても、同じ罪には同じ刑罰が下されるようになったため、えこひいきや不公平がなくなり、庶民も納得できる客観的な裁判が実現したのです。また、判決を下すために過去の記録を毎回探し出す手間が省けたため、裁判のスピードも格段に上がり、江戸の町の治安維持に大きく貢献することになりました。
しかし、この公事方御定書には一つ大きな特徴がありました。それは「一般の庶民には絶対に秘密にする」というルールです。この法律の内容を知ることを許されたのは、町奉行や勘定奉行といった幕府のトップクラスの役人(三奉行)など、ごく一部の人間だけでした。法律の本が勝手に書き写されたり、外部に持ち出されたりしないよう、幕府は非常に厳重な情報管理を行っていたのです。
なぜ、法律を庶民に秘密にしたのでしょうか。当時は「庶民は為政者に従わせればよく、政治の道理を知らせる必要はない」という考え方が強かったからです。「ここまでなら罪が軽いからやっても大丈夫だろう」と、法律の抜け穴を探して悪さをする者が出るのを防ぎ、「お上(幕府)の決まりは怖いものだ」と恐れさせることで、犯罪そのものを未然に抑え込もうとしたのです。
刑罰の基準が厳格に決まりましたが、吉宗や忠相は決して血も涙もない機械的な裁判を目指したわけではありませんでした。基本的には法律に従いつつも、犯罪に至ったやむを得ない事情や、犯人が深く反省している場合などは、奉行の判断で刑を軽くする情状酌量の余地も残されていました。法と人情のバランスをとる、日本らしい裁判の形がこの法典にもしっかりと反映されていたのです。
公事方御定書は、幕府の権威を強め、江戸時代の社会を安定させるための強力な武器となりました。一部の特権階級だけの秘密の法律であったという限界はありますが、「あらかじめ決められた法律に基づいて刑罰を決める」という近代的な法制度の考え方へ向かう、日本の歴史における重要な端緒を開きました。徳川吉宗の現実主義が結実した、日本法制史上の決定的な契機となる法典です。