8代将軍に就任した徳川吉宗は、幕府の帳簿を見て青ざめました。当時、金や銀の採掘量が激減していたうえに、これまでの将軍や武士たちの贅沢な暮らしがたたって、幕府の金庫はスッカラカンだったのです。「このままでは幕府が倒産してしまう!」と強い危機感を持った吉宗は、国を挙げての大規模な財政再建プロジェクトである享保の改革をスタートさせます。その最大の武器となったのが「徹底的な節約」でした。
吉宗のすごいところは、ただ命令するだけでなく「まずは自分が手本を見せる!」と実践したことです。日本のトップである将軍なのに、普段着は高級な絹ではなく、農民と同じ安物の「木綿(もめん)」の着物でした。食事も朝夕の2回のみで、メニューはご飯とお味噌汁にオカズが1品だけの「一汁一菜(いちじゅういっさい)」です。トップがここまでストイックに我慢しているのだから、家臣の武士たちも贅沢なんて絶対にできませんでした。
1723年、吉宗は人々にガチガチの節約を強制する倹約令(けんやくれい)を発令しました。「派手な柄の着物を着てはいけない」「豪華なお菓子やタバコは禁止」「お祭りや宴会もハデにやってはダメ!」など、市民生活の細かいところまで厳しく取り締まったのです。江戸の町では役人が目を光らせており、隠れて贅沢をしているのがバレると厳しく処罰されました。華やかだった江戸の町は、すっかり地味で静かになってしまいました。
誰もが無駄遣いをやめて徹底的に節約した結果、幕府の金庫には少しずつお金が貯まり始めました。しかし、ここで大きな落とし穴がありました。みんなが物を買わなくなったため、商人たちの商品が全く売れなくなってしまったのです。お店が儲からないので従業員の給料も下がり、さらにお金を使わなくなる…という悪循環に陥り、世の中は深刻な大不景気(デフレ)になってしまいました。節約のしすぎが、逆に経済の首を絞めてしまったのです。
経済を冷え込ませる副作用はあったものの、この倹約令と並行して行った新田開発や新しい税の仕組み(上げ米の制)などの政策により、破産寸前だった幕府の財政は奇跡のV字回復を果たしました。吉宗は「米将軍(八代将軍吉宗)」と呼ばれ、名君として歴史に名を残します。しかし、「財政難になったら倹約令を出す」というやり方が幕府の定番となり、この後の「寛政の改革」や「天保の改革」でも、庶民は何度も厳しい節約を強いられることになります。