戦国時代を終わらせた豊臣秀吉は、再び世の中が乱れることを防ぐため、すでに農民から武器を没収する「刀狩令(かたながりれい)」や、全国の土地を測量する「太閤検地」を行っていました。しかし、それだけではまだ不十分でした。戦国時代の名残で、農民が勝手に武士になったり、武士が商売を始めたりと、人々の職業や身分が流動的だったからです。秀吉は、国家を安定させるための「総仕上げ」として、人々の職業を完全に固定しようと考えました。
1592年、身分統制の決定版となる人掃令(ひとばらいれい)が全国に発布されます。この命令を出したのは、秀吉から関白の位と国内の政治を譲り受けていた甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)でした。しかし、その背後には「太閤」として絶大な権力を握る秀吉の強い意向がありました。全国の大名に対し、「自分の領地にいる人々の職業を徹底的に調査し、二度と勝手に変えさせてはならない」と厳命したのです。
人掃令の最も重要な内容は、職業変更の禁止です。武士として仕えている者が勝手に町人や農民になること、逆に農民が商売を始めたり武士の真似事をしたりすることが固く禁じられました。「武士は戦い、農民は田畑を耕し、町人は商売をする」。それぞれの役割を国が強制的に割り当て、そこから一生逃れられないように縛り付けたのです。戦国時代のように、足軽から天下人へと出世するような夢物語は、この法令によって完全に打ち砕かれました。
職業を固定するためには、誰がどこで何の仕事をしているのかを国が正確に把握しなければなりません。そこで行われたのが「人別改(にんべつあらため)」という全国規模の戸籍調査です。村や町ごとに、一軒の家に何人の男女が住んでいて、それぞれがどんな職業に就いているかを細かく書類(人別帳)に書き出させました。国が個人の生活や職業を徹底的に管理する、巨大な監視システムの構築が始まったのです。
秀吉が農民の移動を特に厳しく禁じた最大の理由は、安定した「年貢(税金となるお米)」を確保するためでした。農民が勝手に村を捨てて町へ働きに出てしまえば、田畑は荒れ果て、豊臣政権や大名たちの収入源が失われてしまいます。「農民は一生、自分の村で田んぼを耕し続けなさい」。人掃令は、国を支える最大の生産階級である農民を、土地に強く縛り付けるための強力な鎖としての役割を果たしました。
もし、この法令を破って勝手に職業を変えたり、村から逃げ出したりした者がいた場合はどうなったのでしょうか。人掃令では、逃亡した本人だけでなく、その者をかくまった者や、雇い入れた町人までもが厳しく処罰されることになっていました。周囲の人間も罰せられるため、人々はお互いを監視し合うようになり、決められた身分や村から抜け出すことは事実上不可能となりました。
逃亡者を防ぎ、年貢を確実に納めさせるため、村の内部では「連帯責任」のシステムが強化されました。数軒の家を一つのグループとし、誰か一人が逃げたり罪を犯したりすれば、グループ全員が罰を受けるという仕組みです。この連帯責任の考え方は、のちに江戸幕府が農村を支配するために本格的に導入する「五人組(ごにんぐみ)」制度の原型となっていきました。
1592年という発布のタイミングには、もう一つ重大な理由がありました。秀吉が朝鮮半島へ大軍を送り込む文禄の役(ぶんろくのえき:朝鮮出兵)が始まった年だからです。海の向こうで大規模な戦争を行うためには、大量の兵士はもちろん、武器や食料を運ぶための膨大な労働力(水夫や人夫)が必要でした。秀吉は人別改によって全国の労働力を正確に把握し、彼らを戦争へ強制的に動員するためのリストとして利用したのです。
刀狩令によって「武器を持つ者」と「持たない者」が分けられ、太閤検地によって「土地を持つ農民」が確定しました。そして、この人掃令によって「武士」と「農民」の職業が完全に固定されました。武士は城下町に集められて政治や戦争に専念し、農民は村に住んで農業に専念する。この明確な身分の切り離しを兵農分離(へいのうぶんり)と呼び、豊臣政権による国家支配の基本構造がここに完成したのです。
人掃令によって固定された職業と身分の枠組みは、秀吉の死後、徳川家康が創り上げる江戸幕府へとそのまま引き継がれていきました。そして、江戸時代の260年間にわたって日本社会を支配する「士農工商(しのうこうしょう)」という強固な身分制度の土台となっていきます。戦国の混乱を力で鎮め、近代以前の新しい社会秩序を構築したという意味で、日本の歴史の決定的な契機となった極めて重要な法令です。