江戸幕府にとって、天皇や貴族がいる京都は特別な場所でした。幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)という偉い役人を置き、朝廷の監視から西日本の大名たちの見張り、さらには京都の町民のトラブル解決まで、ありとあらゆる仕事を任せていました。しかし、戦国時代が終わって平和になると京都の町はどんどん発展し、人が増えて大混乱!「もう一人ではさばききれない!」と、所司代の仕事は完全にパンク寸前になってしまったのです。
そこで1668年、第4代将軍・徳川家綱の時代に、幕府は仕事の「役割分担」を決断します。天皇や大名の監視といった「国レベルの超重要任務」は引き続き京都所司代が担当し、町民の揉め事や泥棒の逮捕、税金の管理といった「市民の生活に密着した仕事」を専門に行う京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)を新しく設置したのです。現代でいうところの「市役所」と「警察署」が合体したような、とても頼りになる役所の誕生でした。
新しく作られた京都町奉行は、江戸の町奉行と同じように「東町奉行所」と「西町奉行所」の2つが置かれました。2つの役所をわざわざ作った理由は、お互いの仕事をチェックさせて不正を防ぎ、さらにライバルとして競争させることで、よりスピーディーに裁判や政治を行わせるためです。この画期的なシステムにより、京都の治安は劇的に良くなり、商人や職人たちが安心して商売に打ち込める豊かな町へとさらに成長していきました。
この京都町奉行の設置は、ただ役所が一つ増えただけではありません。武力で言うことを聞かせる「武断政治」から、法律と役人のシステムで平和に国を治める「文治政治(ぶんちせいじ)」へと、江戸幕府が完全にステップアップしたことを意味しています。大坂や駿府(静岡)などの重要な都市にも次々と町奉行(遠国奉行)が置かれ、徳川家による全国の支配ネットワークは、誰にも揺るがすことのできない完璧なシステムとして完成していくのです。