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バテレン追放令 発布 ばてれんついほうれい はっぷ

🕒 1587年6月19日 🏯 安土桃山時代
📍 場所: 福岡県 筑前国箱崎(現在の福岡県福岡市) 👤 関連: 豊臣秀吉
1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、突如としてキリスト教の宣教師(バテレン)に対して国外退去を命じた法令です。当初はキリスト教に寛容だった秀吉ですが、信者による神社仏閣の破壊や、日本人を奴隷として海外へ売る行為、さらには長崎が教会の領地になっている事実を知り、国家を脅かす存在として激しい危機感を抱きました。布教を禁じつつも南蛮貿易は奨励するという二面性を持ち、後の江戸幕府による完全な禁教令や鎖国政策へと繋がる、歴史の決定的な契機となった重要事件です。
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キリスト教の保護と南蛮貿易

織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、当初はキリスト教に対して非常に寛容な態度をとっていました。なぜなら、宣教師たちがもたらす南蛮貿易(なんばんぼうえき)の莫大な利益や、鉄砲などの最新の西洋兵器が、天下統一のためにどうしても必要だったからです。秀吉は大坂城で宣教師たちを歓待して仲良く振る舞い、布教活動を黙認していました。キリスト教の信者は全国で数十万人に達し、我が世の春を謳歌していたのです。
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九州平定と広がる信者の輪

1587年、秀吉は反抗的な島津氏を討伐するため、自ら大軍を率いて九州へ上陸しました。そこで秀吉が目にしたのは、信長時代から続くキリスト教のすさまじい浸透ぶりでした。特に九州では、キリシタン大名(きりしたんだいみょう)たちが独自の強力なネットワークを築き、領民をこぞってキリスト教に改宗させていたのです。「このままでは、九州が外国の神を信じる独立国のようになってしまう」。秀吉の心の中に、強い警戒感が芽生え始めました。
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許されざる神社仏閣の破壊

九州を進軍する秀吉をさらに激怒させたのが、狂信的なキリシタンたちによる神社仏閣の破壊行為でした。キリスト教以外の宗教を絶対に認めない彼らは、日本の伝統的な神社の鳥居を燃やし、お寺の仏像を壊して回っていたのです。「神の国である日本で、伝統ある神仏を破壊するとは何事か!」。天下人として日本の秩序を守ろうとする秀吉にとって、この過激な行動は絶対に許すことのできない、国を根底から揺るがす深刻な問題として映りました。
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怒りの頂点!日本人の奴隷売買

さらに秀吉を愕然とさせたのは、一部のポルトガル商人が日本人を奴隷として海外へ不法に売り飛ばしているという悲惨な実態でした。火薬や武器を買うための代金として、貧しい日本人や戦争の捕虜が海外へ輸出されていたのです。「日本の民が牛馬のように売り買いされているとは!」。農民出身から天下人へと上り詰めた秀吉は、自らの民が外国人に虐げられている現実に激しい怒りを覚え、キリスト教の背後にある西洋の侵略の意図を疑い始めました。
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軍事力の誇示と長崎の領地化

そして決定打となったのが、イエズス会の日本でのトップである宣教師ガスパル・コエリョの態度でした。彼は秀吉に立派な軍艦を見せびらかして軍事力を誇示し、さらには長崎の町がキリシタン大名からイエズス会に寄付され、実質的に外国の領土になっていることを知ったのです。「彼らは宗教を隠れ蓑にして日本を乗っ取る気だ!」。コエリョの不用意な行動は、秀吉に「キリスト教=国家転覆の脅威」という決定的な危機感を抱かせる結果となりました。
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突如発布されたバテレン追放令

1587年6月、九州平定を無事に終えたばかりの秀吉は、筑前国箱崎(現在の福岡県)の陣地で突如として態度を急変させました。コエリョを呼び出して神仏の破壊などを厳しく詰問すると、すぐさまテストにも頻出するバテレン追放令(ばてれんついほうれい)を発布したのです。「バテレン(宣教師)」に対して、20日以内に日本から退去することを命じる衝撃的な内容でした。昨日まで友好的だった天下人の突然の禁教宣言に、宣教師たちは大パニックに陥りました。
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商売は別!したたかな外交戦略

しかし、このバテレン追放令には非常に巧妙な抜け道が用意されていました。秀吉はキリスト教の布教を禁止し、宣教師を追い出した一方で、ポルトガル船との南蛮貿易については「商売は別だから続けてもよい」と特別に許可したのです。つまり、「外国の宗教(侵略の危険)は排除するが、外国の富(貿易の利益)は引き続き手に入れる」という、秀吉のしたたかで現実的な外交戦略でした。軍事力と経済力を切り離す、極めて高度な政治的決断でした。
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信仰か領地か、高山右近の決断

追放令の発布と同時に、秀吉は家臣であるキリシタン大名たちに対しても「信仰を捨てるか、大名の地位(領地)を捨てるか」という究極の選択を迫りました。多くの大名が泣く泣く信仰を捨てる中で、明石の城主であった高山右近(たかやまうこん)だけは「領地を没収されても、神への信仰は絶対に捨てられません」とキリスト教を選びました。怒った秀吉により右近はすべてを失い追放されますが、その高潔な信念は多くの信者たちの心を打ちました。
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実はゆるかった?追放令の不徹底

厳しい法令を出した秀吉でしたが、実はこの時のバテレン追放令はそれほど厳密には実行されませんでした。なぜなら、当時の南蛮船は宣教師と商人が一体となってやって来るため、宣教師を完全に追い出すと儲かる貿易まで止まってしまう恐れがあったからです。そのため、秀吉も宣教師たちが身を隠してひっそりと布教を続けることまでは強く取り締まらず、事実上の「黙認状態」が続きました。キリスト教への徹底的な迫害が始まるのは、もう少し先のことになります。
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禁教と鎖国へ向かう歴史の転換点

徹底されなかったとはいえ、豊臣秀吉が出したこの法令は、日本の権力者が初めて公式にキリスト教を「危険な宗教」として禁止した、歴史の重大な転換点でした。ここから「外国の宗教は国家を脅かす」という認識が日本の支配者層に深く定着し、のちに徳川家康ら江戸幕府による完全な禁教令や鎖国へと繋がる決定的な契機となったのです。秀吉の強い警戒心から発せられた一枚の法令が、その後の日本の対外政策の方向性を決定づけました。
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