1840年、薩摩国(現在の鹿児島県)で身分の低い武士の家に生まれます。若い頃から血気盛んで義理人情に厚い、典型的な「薩摩隼人(さつまはやと)」として育ちました。激動の幕末期には、薩摩藩の尊王攘夷運動に熱い情熱を傾けて奔走し、のちに歴史を大きく動かすことになる「薩長同盟(さっちょうどうめい)」の成立にも深く関与します。西郷隆盛や大久保利通といった偉大な先輩たちの背中を追いかけながら、時代の荒波の中で武将としての並外れた度胸と実戦経験をしっかりと積み上げていきました。
江戸幕府が崩壊した後に起こった「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」では、新政府軍の優秀な指揮官として各地を転戦します。そして1869年、旧幕府軍が立て籠もる北海道での最後の決戦「箱館戦争(はこだてせんそう)」において、海陸の軍勢を率いて猛攻を仕掛けました。星型の要塞である五稜郭(ごりょうかく)を包囲して徹底的に追い詰める一方で、ただ力でねじ伏せるのではなく、無駄な血を流さないために降伏を勧告するという、武将としての見事な冷静さと情けを併せ持っていました。
箱館戦争で降伏した旧幕府軍の総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)の命を救うため、黒田は信じられない行動に出ます。榎本の持つ国際法や海軍の知識が今後の日本に絶対必要だと確信した彼は、「榎本を処刑するなら、私の坊主頭を差し出します(切腹します)!」と新政府に対して命懸けで助命を嘆願したのです。かつて殺し合った敵将のために自分の命を投げ出すというこの熱き人情ドラマにより、榎本は見事に死罪を免れ、二人は生涯にわたる固い親友の絆で結ばれることになります。
明治政府では、手付かずの大自然が広がる北の大地を開拓するため、「北海道開拓使(ほっかいどうかいたくし)」の長官に就任します。アメリカの進んだ農業技術を取り入れるために専門家を招き、有名なクラーク博士が教頭を務める「札幌農学校(さっぽろのうがっこう)」を設立して優秀な人材を育成しました。さらに、道路や鉄道の建設、屯田兵(とんでんへい)の配置など、現在の北海道の基礎となるインフラ整備を強力に推し進め、「北海道開拓の父」として歴史に大きな足跡を残しました。
政治家として大活躍する一方で、彼には「酒癖が極めて悪く、泥酔すると手がつけられない(酒乱)」という致命的な欠点がありました。1878年には、妻である清(きよ)が突然病死したと発表されますが、世間では「泥酔した黒田が激怒して妻を斬り殺したのではないか?」という恐ろしい黒い噂が瞬く間に広まりました。大久保利通らの必死の火消し(揉み消し)によって警察の捜査は打ち切られ事なきを得ましたが、このスキャンダルは生涯にわたって彼のイメージを暗く覆い続ける汚点となりました。
1881年、さらなる大事件を引き起こします。北海道開拓使が約10年かけて莫大な税金で作った工場や船などの官有物を、同郷(薩摩出身)の政商である五代友厚(ごだいともあつ)らに、あり得ないほどの不当な安値で売り渡そうとしたのです。この「開拓使官有物払下げ事件」が新聞にすっぱ抜かれると、「身内で税金を食い物にしている!」と国民から大バッシングを受けて大炎上!世論の猛烈な怒りに耐えきれず、政府はついにこの払下げを中止せざるを得ない事態へと追い込まれました。
数々のスキャンダルを乗り越え、1888年に初代総理大臣の伊藤博文からバトンを引き継ぎ、栄えある第2代内閣総理大臣に就任しました。薩摩閥のトップとして、また維新を生き抜いた数少ない元勲(げんくん)の一人として、国会が開設される直前の最も重要な時期に国のトップを任されたのです。大酒飲みで強引な性格でしたが、いざという時の決断力や、反対派をも巻き込む豪快なリーダーシップは、当時の未成熟な明治国家を力強く牽引するために不可欠なエネルギーでもありました。
総理大臣在任中の1889年2月11日、日本初となる近代的な憲法「大日本帝国憲法」が華々しく発布されました。しかしその翌日、黒田は地方長官を集めた会議の場で、「政府は政党の意見には左右されず、独自に正しいと思う道を行く!」という有名な「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」の演説をぶち上げます。これは、これから始まる議会政治において、国民によって選ばれた政党が政府の政策に口出しすることを強く牽制し、政府の絶対的な優位性を保とうとする強硬な政治宣言でした。
彼の内閣における最大の課題は、幕末から続く不平等条約の改正でした。外務大臣の大隈重信(おおくましげのぶ)に交渉を任せますが、その内容が「外国人裁判官を日本の裁判所に置く」という屈辱的なものであったため、国民の猛烈な反発を買ってしまいます。そしてついに、反対派の青年が投げた爆弾によって大隈が右足を失うという痛ましい暗殺未遂事件(大隈遭難事件)が発生!黒田はこの大混乱の責任を重く受け止め、無念のまま内閣総辞職を決断して総理大臣の座から退くことになりました。
総理大臣を辞めた後も、枢密院議長(すうみついんぎちょう)や「元老(げんろう)」として政界の裏側で影響力を持ち続けましたが、かつての強引な手法が時代に合わなくなり、次第に孤独を深めていきました。1900年、脳出血により60歳で波乱万丈の生涯を閉じます。国民からの人気は決して高くなかった彼ですが、その葬儀で葬儀委員長を務めて深く涙を流したのは、かつて彼が命を懸けて救い出し、のちに大臣として共に働いた生涯の親友・榎本武揚でした。不器用で情に生きた、武将のような政治家でした。