1155年、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の正禰宜(トップの神職)を務める父の次男として誕生しました。由緒正しい神職の家系であり、幼い頃から将来を約束された超エリートの御曹司として何不自由なく育ちました。
しかし、長明が18歳の時に後ろ盾であった父が急死してしまいます。これを機に神社の後継者争いに敗れ、約束されていた神職としての出世コースから無情にも外れてしまうという、人生最初の大きな挫折を味わいました。
神職への道を絶たれた彼は、和歌と音楽(琵琶)の世界に没頭していきます。特に和歌は当代一流の歌人・俊恵(しゅんえ)の歌会に参加して腕を磨き、瞬く間に京都の歌壇でトップクラスの実力者として認められるようになりました。
彼の才能に目をつけたのが、芸術をこよなく愛する後鳥羽上皇でした!上皇によって和歌所の寄人(職員)に大抜擢され、天皇の命令で編纂された『新古今和歌集』には、なんと長明の和歌が10首も選ばれるという大変な名誉に浴します。
和歌での活躍が認められ、後鳥羽上皇の強力な推薦で念願であった下鴨神社(河合社)の神職に就けるチャンスが巡ってきました!しかし、親族からの猛反対に遭ってまたしてもポストを逃してしまい、絶望した彼は50歳で出家を決意します。
彼が生きた時代は「安元の大火」「治承の竜巻」「福原への遷都」「養和の飢饉」「元暦の大地震」という、想像を絶する大災害が立て続けに起こりました。彼は都が地獄絵図と化していく様子を、自らの目で克明に目撃していました。
出家後、各地を転々とした後に日野山(京都市伏見区)に落ち着き、一丈四方(約3メートル四方)の小さな家を建てました。これは分解して牛車に積み、どこへでも持ち運べるという、現代のプレハブ式モバイルハウスの先駆けでした!
1212年、その小さな庵の中で、彼の代表作である『方丈記』を執筆します。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の書き出しで知られ、彼が目撃した五大災厄の恐ろしさを克明に記録した、日本最古のルポルタージュ文学です。
『方丈記』の根底に流れているのは「この世のあらゆるものは移り変わり、永遠に変わらないものなどない」という仏教的な「無常観」です。権力や財産に執着することの虚しさを、リズミカルで美しい和漢混交文で見事に表現しました。
晩年は小さな庵の中で、好きな時に琵琶を弾き、好きな時に和歌を詠み、誰にも縛られない自由な生活を心から愛しました。出世の未練を断ち切り、最小限の持ち物だけで心豊かに生きた彼は、日本における「究極のミニマリスト」として現代でも共感を呼んでいます。