1804年、陸奥国水沢(岩手県奥州市)に生まれます。江戸で蘭方医をしていた叔父・高野玄斎の養子となり、医者になることを期待されていましたが、より深い学問を求めてなんと養父に無断で江戸へ出奔!持ち前の頭脳で蘭学(オランダの学問)を猛勉強し始めます。
1825年、長崎へ赴き、ドイツ人医師シーボルトがひらいた「鳴滝塾」に入塾します。オランダ語を完璧にマスターし、シーボルトから「ドクトル(博士)」の称号を与えられるほど、塾内でもトップクラスの超優秀な成績を収めました。
1828年、師匠のシーボルトが国禁である日本地図を持ち出そうとした「シーボルト事件」が起きます。多くの門下生が逮捕される中、長英はいち早く危険を察知して長崎から逃亡。この危機回避能力と人脈の広さが、のちの逃亡生活でも発揮されることになります。
江戸に戻った長英は、町医者として働きながら蘭学の翻訳を行います。この頃、田原藩家老の渡辺崋山と出会い意気投合。身分にとらわれず西洋の知識を学ぶサロン「尚歯会」の中心人物として、日本の遅れに強い危機感を抱く天才たちと交流を深めました。
1837年、漂流民を送り届けに来たアメリカ船を幕府が砲撃する「モリソン号事件」が発生。最新の海外事情に精通していた長英は、「イギリスやアメリカなどの強国をむやみに怒らせる無知な対応だ!」と、幕府の愚かな鎖国政策に激しい憤りを覚えます。
幕府の対応を批判するため、長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆します。「夢の中で聞いた話」というフィクションの形式をとりながらも、異国船打払令の危険性を論理的に分かりやすく説いたこの本は、こっそりと知識人たちの間でベストセラーになりました。
1839年、幕府の保守派(鳥居耀蔵ら)が蘭学者たちを弾圧する「蛮社の獄」が起きます。長英も「幕府の政策を批判した危険人物」として逮捕されてしまいました。盟友の渡辺崋山が蟄居処分となる中、長英は終身刑(無期懲役)という非常に重い判決を受け、牢屋に入れられてしまいます。
しかし、天才・長英は牢屋敷の中でただ朽ち果てるつもりはありませんでした!1844年、牢屋敷で火災が発生した際、「火事の時は一時的に囚人を解放する(切り放ち)」という幕府のルールを利用して見事に脱獄!一説には、長英自身が牢屋敷の雑役を使って放火させたとも言われています。
脱獄後は、幕府の厳しい追っ手から逃れるため、なんと硝酸(劇薬)で自分の顔を焼いて人相を変えるという壮絶な逃亡生活を送ります!偽名を使い分けながら全国を逃げ回り、各地の蘭学者たちに匿われながら、逃亡先でも兵法書などの翻訳(『三兵答古知幾』など)を続けました。
逃亡生活は約6年にも及びましたが、1850年、江戸の青山百人町に潜伏しているところを、ついに幕府の役人に包囲されてしまいます。「もはやこれまで」と悟った長英は、役人に捕まる直前に自ら短刀で喉を突いて自害し、47歳の壮絶な生涯を閉じました。時代を先取りしすぎたゆえの悲劇でした。