1698年、江戸の中心地である日本橋で商いをしていた家の息子として生まれます(実家は魚屋だったという説が有力です)。幼い頃から非常に頭が良く、学問への強い情熱を持った少年でした。
22歳の時、本格的に学問を修めるために京都へ上り、有名な儒学者・伊藤東涯(いとうとうがい)の門下に入ります。ここで単なる机上の空論ではなく、人々の生活に役立つ「実学」の精神を深く学びました。
江戸に戻って塾を開いていた昆陽の才能に目をつけたのが、あの「大岡越前」で有名な町奉行・大岡忠相です!彼の推薦により、昆陽は第8代将軍・徳川吉宗の幕府の書物方(図書館員のような役職)に大抜擢されました。
当時、日本は「享保の大飢饉」に見舞われ、米が獲れずに多くの人が餓死していました。そこで昆陽は、荒れた土地でも育つサツマイモ(甘藷)に着目し、その栽培法や効能をまとめた『蕃薯考(ばんしょこう)』を吉宗に提出しました。
吉宗から「よし、実際に育ててみよ!」と命令を受けた昆陽は、1735年、小石川御薬園(現在の東京大学附属植物園)や下総国幕張(千葉市)、上総国九十九里でサツマイモの試験栽培をスタートさせます。
苦労の末、見事にサツマイモの栽培に大成功!この栽培法が全国の農村に配られ、サツマイモは飢饉を救う「奇跡の作物」として一気に普及しました。人々は感謝と親しみを込めて、彼を「甘藷先生」と呼びました。
サツマイモだけでなく、将軍・吉宗から「オランダ語も勉強しろ!」という新たなミッションを与えられます。鎖国時代にオランダ語を学ぶのは至難の業でしたが、長崎から江戸にやってくるオランダ商館長たちを訪ね、必死に言葉を吸収しました。
その語学の努力が実を結び、オランダ語のアルファベットや単語をまとめた入門書『和蘭文字略考』などを完成させます。彼が蒔いたこの語学の種が、のちの杉田玄白や前野良沢らによる「蘭学」の大きな発展へと繋がっていくのです。
幕府の書物奉行として、全国から貴重な古文書や記録を収集し、幕府の書庫である紅葉山文庫を充実させました。火事の多い江戸において、日本の大切な歴史的資料が失われないよう守り抜いた、影の功労者でもあります。
1769年に72歳で亡くなりますが、彼の功績は永遠に語り継がれています。サツマイモの試験栽培が行われた千葉県の幕張には、彼を「芋神様」として祀る『昆陽神社』が建てられ、今でも秋にはサツマイモをお供えして感謝の祭りが開かれています。