1844年、紀州藩(和歌山県)の重臣・伊達宗広の六男として生まれました。幼名は牛麿。しかし8歳の時に父が政争に敗れて失脚し、一家は財産を没収されて追放されます。華やかな上級武士の生活から一転、その日食べるものにも困る極貧の少年時代を過ごし、強烈な反骨精神を養いました。
青年になった陸奥は江戸へ出て勉学に励み、勝海舟の神戸海軍操練所に入所します。ここで一生の師となる坂本龍馬と運命の出会いを果たしました。頭の回転が異常に速い陸奥を龍馬は高く評価し、亀山社中(のちの海援隊)の主要メンバーとして迎え、「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは俺と陸奥だけだ」と絶賛しました。
1867年、最も敬愛する龍馬が暗殺されるという悲劇に見舞われます。激怒した陸奥は復讐の鬼と化し、暗殺の黒幕と疑われていた紀州藩士の三浦休太郎を襲撃!(天満屋事件)。結果的に討ち取ることはできませんでしたが、彼がいかに龍馬を深く慕っていたかが伝わる熱いエピソードです。
維新後、その有能さを買われて明治新政府の役人になりますが、薩摩・長州出身者ばかりが権力を握る「藩閥政治」に猛反発します。知事などの要職を歴任しながらもたびたび政府と衝突しては辞職を繰り返し、税制改革などを激しく訴える建白書を提出する反逆児でした。
1877年、西南戦争に乗じて政府転覆を企てたという罪(立志社の獄)に問われ、なんと投獄されてしまいます!約5年間もの獄中生活を送ることになりますが、彼は決して絶望せず、英語の猛勉強やイギリスの哲学者ベンサムの著作の翻訳などに没頭し、来るべき日のために知性を磨き上げました。
1883年に特赦で出獄すると、かつての同僚である伊藤博文らの支援を受けてヨーロッパへ留学します。ここで西洋の近代的な政治システムや外交の現実を徹底的に学び、単なる「反政府の志士」から「国際的な視野を持つ近代政治家」へと見事なスケールアップを果たして帰国しました。
帰国後は伊藤博文の強力なバックアップで政界に奇跡の復帰を果たします。第2次伊藤内閣では外務大臣に抜擢!頭脳明晰で弁が立ち、どんな難題もスパッと切り捨てるような鋭い判断力と冷徹な政治手腕から、人々は彼を「カミソリ大臣」と呼んで恐れ、また大いに頼りにしました。
外相としての最大のミッションは、幕末から続く「不平等条約の改正」でした。陸奥はイギリスとの息詰まる交渉を粘り強く、時に強気で進め、1894年についに「日英通商航海条約」の調印にこぎつけます。これにより長年の悲願であった「治外法権(領事裁判権)の撤廃」を成し遂げるという歴史的偉業を達成しました!
条約改正の直後、日本と清(中国)との間で日清戦争が勃発します。陸奥は軍部と連携しながら、欧米列強が介入してこないように緻密な外交戦を展開。戦勝後の下関条約では全権大使として李鴻章と交渉し、台湾の割譲や多額の賠償金を獲得するなど、日本の国益を最大限に引き出しました。
日清戦争の激務の裏で、彼は重い肺結核に蝕まれていました。ロシアなどによる三国干渉という最大の試練にも病床から指示を出して乗り切ります。退任後、これまでの外交の舞台裏を詳細に記録した名著『蹇蹇録(けんけんろく)』を執筆。1897年、53歳の若さでこの世を去り、近代日本外交の基礎を築いた巨星は静かに眠りにつきました。