1819年、備後福山藩(広島県)の藩主の家に生まれます。非常に聡明で人当たりが良く、第12代将軍・徳川家慶からの厚い信任を受け、なんと1843年にわずか25歳の若さで幕府の事実上のトップである「老中首座」に大抜擢されました!
1853年、彼に最大の試練が訪れます。アメリカのペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀に現れ、日本に開国を迫ったのです。圧倒的な武力を誇る巨大な蒸気船を前に、日本中がパニックに陥り、幕府は究極の決断を迫られました。
黒船の脅威に対して、彼はこれまでの幕府だけで政治を決める独裁スタイルを捨てます。朝廷に危機を報告し、親藩や外様大名、さらには一般の庶民にまで「どうすればいいか意見を出してくれ!」と広く意見を求める、画期的な政治手法を取りました。
幕府の権威が落ちるリスクを承知の上で、薩摩藩の島津斉彬や越前藩の松平春嶽といった、優秀で発言力のある「外様大名」たちと積極的に連携しました。日本の危機を救うため、身内だけでなくオールジャパンの体制(挙国一致)を築こうとしたのです。
身分や家柄にとらわれず、実力のある人材を次々と幕府に登用する「安政の改革」を断行!下級武士だった勝海舟や、漂流民からアメリカ帰りの知識人となったジョン万次郎など、のちの日本を動かすキーマンたちを彼が発掘しました。
1854年、再び来航したペリーに対し、戦争になれば日本が滅亡すると判断した正弘は、平和裏に「日米和親条約」を締結しました。これにより、約200年続いた「鎖国」体制に終止符を打ち、日本は新たな世界(開国)へと足を踏み入れました。
外国の脅威から日本を守るためには、近代的な軍事力が必要不可欠だと悟ります。そこで、西洋式の兵学を教える「講武所」や、オランダから海軍の技術を学ぶ「長崎海軍伝習所」を立て続けに創設し、日本の国防力を飛躍的に向上させました。
開国へと舵を切った正弘でしたが、「外国を打ち払え!」と主張する強硬な攘夷派の巨魁・徳川斉昭(水戸藩主)などを幕政に参加させていたため、常に彼らからの猛烈な突き上げと批判を浴び続けるという、地獄のような板挟み状態に陥りました。
ペリー来航からの数年間、日本の舵取りという想像を絶する重圧と激務、そして人間関係のストレスにより、彼の身体は悲鳴を上げていました。1857年、老中首座の座を堀田正睦に譲った直後、病に倒れ、わずか39歳という若さでこの世を去りました。
彼が亡くなった後、幕府は井伊直弼の独裁(安政の大獄)などで混乱していきます。しかし、正弘がスカウトした人材や創設した海軍伝習所といった「近代化の種」は決して消えることなく、のちに日本を近代国家へと導く明治維新の強力な原動力となりました。