1640年頃、上野国(群馬県)または江戸で生まれたとされています。武士の家系であり、後に甲府藩主・徳川綱豊(のちの第6代将軍・徳川家宣)に仕えることになりますが、生い立ちや若い頃の記録には不明な点が多く、まさに「ミステリアスな天才」として日本の歴史に突如として登場します。
当時の日本には専門的な数学の学校などありませんでしたが、大ベストセラー数学書『塵劫記(じんこうき)』などを独学で読み解き、凄まじいスピードで数学の才能を開花させていきます。やがて、当時の数学者たちが解けなかった超難問に挑むようになりました。
当時の数学者たちの間では、出版する本の後ろに自分が解けなかった難問(遺題)を書き残し、次の世代の数学者に解かせるという「遺題継承」という熱い数学バトルが行われていました。関孝和は『発微算法(はつびさんぽう)』という本を出版し、これらの超難問を見事にすべて解いてみせたのです!
彼の最大の功績の一つが「点竄術(てんざんじゅつ)」の創始です。それまで算木(さんぎ)という木の棒を盤に並べて行っていた複雑な計算を、紙と筆を使った数式(文字式)で表現できるようにした画期的な発明であり、日本の数学を一気に近代化させました。
円の面積や円周率を求める問題にも挑みました。なんと円の中に「正131072角形」という途方もない多角形を描いて計算し、円周率を「3.14159265359...」と11桁まで正確に弾き出しました!これは当時の世界でもトップクラスの驚異的な精度でした。
彼の凄さは日本国内に留まりません。連立方程式を解くための「行列式」の概念を、西洋のライプニッツよりも10年以上早く発見!さらに、微積分に通じる「ベルヌーイ数」も西洋とほぼ同時期に独自に発見するという、世界レベルの大天才だったのです。
数学の知識を活かして、正確なカレンダー(暦)を作る「暦学」にも並々ならぬ情熱を注ぎました。中国の高度な『授時暦』を深く研究し、日食や月食の予測計算などを極め、親交のあった渋川春海らの改暦事業に理論的な面から大きな影響を与えました。
甲府藩主の徳川綱豊の家臣として、領地の測量など実務的な仕事もキッチリとこなす優秀な役人でもありました。綱豊が第6代将軍・家宣として江戸城に入ると、関孝和もそれに伴って幕府の直臣(幕臣)となり、武士としても異例の出世を果たします。
自分一人の才能に留まらず、建部賢弘(たけべ かたひろ)という非常に優秀な弟子を育て上げました。建部らとともに巨大な日本地図を作成したり、和算の奥義をまとめた百科事典『大成算経(たいせいさんけい)』の編纂に着手するなど、最強の師弟タッグで活躍しました。
1708年、偉大な生涯を閉じました。鎖国下の日本において、誰にも教わることなく独自に世界最高峰の数学を創り上げた彼の業績は、後の和算家たちから神のように崇められ、「算聖」と讃えられました。現代の日本の数学力のルーツを創った、誇り高き偉人です。