688年、唐(中国)の揚州で生まれました。幼い頃から仏門に入り、仏教の戒律(僧侶が守るべきルール)を深く研究。成長すると、揚州の大寺院である大明寺の住職となり、4万人以上もの人々に戒を授けたとされる、唐の仏教界におけるトップクラスの超大物高僧でした。
当時の日本は、税金逃れのために勝手に髪を剃って僧侶になる「私度僧」が溢れ、仏教界の秩序が崩壊していました。これを正すため、聖武天皇から命を受けた若き日本の留学僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)がはるばる揚州を訪れ、鑑真に「どうか日本に戒律を伝えてください」と涙ながらに懇願します。
栄叡と普照の願いを聞いた鑑真は、弟子たちに「誰か日本へ行く者はいないか?」と問いますが、海を渡る危険を恐れて誰も手を挙げませんでした。すると鑑真は「誰も行かないのなら、私が行こう。仏法を伝えるためなら、命など惜しくはない!」と自ら日本へ渡ることを決意しました。
しかし、当時の航海は命懸けであり、さらに「こんな偉大な高僧を外国に出すわけにはいかない」と弟子や周囲の者が役所に密告したため、船出を止められてしまいます。その後も海賊の襲撃や激しい暴風雨などに阻まれ、渡航計画はことごとく失敗に終わりました。
748年、5度目の挑戦でついに海に出ますが、猛烈な台風に巻き込まれてしまいます。何日も水のない過酷な漂流の末、目的地とは正反対の遥か南の海南島(現在の中国最南端)に打ち上げられてしまいました。そこから揚州へ戻るための、さらなる苦難の陸路の旅が始まります。
揚州へ戻る過酷な旅の途中、日本からやって来て苦楽を共にした愛弟子・栄叡が病で命を落としてしまいます。さらに、鑑真自身も南方の厳しい気候と疲労が原因で病に倒れ、ついには両目の視力を完全に失い、光を奪われてしまいました。
視力を失い、年齢も60歳を超えていましたが、彼の日本への情熱は全く衰えませんでした。753年、日本からやって来た遣唐使(藤原清河や吉備真備ら)の帰りの船に、唐の役人の目を盗んで密かに乗り込むことに成功!ついに6度目の挑戦で奇跡的に日本への航海を果たします。
出航から10年の歳月と5度の失敗を乗り越え、ついに日本の薩摩国(鹿児島県)に上陸!その後、平城京へと迎え入れられました。日本の仏教を救うために両目を失いながらも来てくれた鑑真に対し、聖武太上天皇は深く感動し、彼を熱狂的に歓迎しました。
鑑真は東大寺大仏殿の前に「戒壇(かいだん:戒を授けるための正式なステージ)」を築き、聖武太上天皇や光明皇太后、そして日本の僧侶たちに次々と正しい戒律を授けました。これにより、日本の仏教は初めて国際的な基準を満たした正式なシステムを持つことになりました。
晩年は、自らの理想の寺院である「唐招提寺(とうしょうだいじ)」を建立し、そこで弟子たちの育成に全力を注ぎました。763年に76歳で静かに息を引き取りますが、彼が命懸けで日本にもたらした仏教の精神や医薬の知識は、日本の歴史と文化に計り知れないほど大きな影響を与え続けています。