1876年、福島県の貧しい農家に生まれました。幼い頃の名前は「清作(せいさく)」といいます。わずか1歳半の時、囲炉裏(いろり)に落ちて左手に大火傷を負い、指がすべてくっついてしまうという大きなハンデを背負ってしまいます。母のシカは「自分の不注意のせいだ」と深く自分を責め、清作が立派に生きていけるようにと、身を粉にして働きながら彼に学問を身につけさせました。
左手が不自由なため農作業ができず、いじめられることもあった清作ですが、成績は常にトップクラスでした。そんな彼を作文で知った先生や友人たちがお金を出し合い、なんと15歳の時に左手の手術を受けることができたのです!くっついていた指が離れ、物がつかめるようになったことに清作は大感動。「自分も医者になって、病気やケガで苦しむ人々を救いたい!」と、医学の道を強く志す決定的なキッカケとなりました。
医者になる決意をした彼は、血の滲むような猛勉強を開始します。上京して医術開業試験(医師免許の試験)に挑むと、普通は数年かかる前期試験と後期試験を、なんとわずか半年ほどの信じられないスピードで一発合格してしまいます!寝る間も惜しんで本を読み漁るその凄まじい集中力と努力は、のちに彼が「ナポレオンか、野口英世か(睡眠時間が短いことの例え)」と呼ばれるほどの代名詞となっていきました。
上京して医者になった頃、坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の小説『当世書生気質』を読んだ彼はショックを受けます。そこに登場する「野々口精作」というキャラクターが、自分と名前が似ているだけでなく、頭は良いのに借金まみれで自堕落な生活を送るダメ人間だったのです!「このままではいけない!」と強く反省した彼は、心機一転するために戸籍の名前を「清作」から、世界で活躍するという意味を込めた「英世」へと改名しました。
日本では学歴や左手の障害が壁となり、なかなか良い研究ポストに就けませんでした。そこで英世は「実力主義の海外で勝負するしかない!」と決意し、1900年にお金を借りて単身アメリカへと渡ります。片言の英語と持ち前のものすごい熱意で、以前来日した際に案内役を務めたフレクスナー博士を強引に頼り込み、助手としてペンシルベニア大学での研究生活をスタートさせるという、驚きの行動力を発揮しました。
アメリカでの英世は、寝食を忘れて研究に没頭する「実験マシーン」のような働きぶりを見せます。その努力が認められ、世界トップクラスの研究機関であるロックフェラー医学研究所の正所員に抜擢されました!そして1911年、恐ろしい病気だった梅毒(ばいどく)の病原体である「梅毒スピロヘータ」の純粋培養(菌だけを増やすこと)に成功したと発表し、医学界に大ニュースを巻き起こしました。
進行性麻痺という脳の病気の患者から梅毒スピロヘータを発見した功績は大絶賛され、英世はなんとノーベル生理学・医学賞の候補に何度もノミネートされました!アメリカの医学界で大スターとなった彼は、世界中の大学や研究所から表彰を受け、日本でも「世界的偉人」として熱狂的に讃えられます。貧しい農家の生まれから、己の実力と努力だけで世界の頂点近くまで登り詰めたのです。
アメリカで大成功を収める英世でしたが、故郷で待つ老いた母・シカのことが常に心にありました。ある日、文字の読み書きができなかったシカが、一生懸命に字を練習して書いた手紙が英世のもとに届きます。「はやくきてくたされ(早く帰ってきてください)」「一生のたのみてありまする」という、母の痛切な愛と会いたい気持ちが溢れる手紙を読み、英世は涙を流して15年ぶりとなる日本への一時帰国を果たしました。
日本への帰国後も、英世は中南米やアフリカを飛び回り、当時世界中で恐れられていた黄熱病(おうねつびょう)の研究に命を懸けます。現地で病原体を特定したと発表し、ワクチン開発にも取り組みましたが、実は黄熱病の正体は当時の顕微鏡では絶対に見えない小さな「ウイルス」だったため、彼の発見は後に誤りであったことが判明します。しかし、未知の病に最前線で立ち向かった彼の勇気は本物でした。
1928年、アフリカの黄金海岸(現在のガーナ)のアクラで黄熱病の研究を続けていた英世は、自らも黄熱病に感染してしまいます。懸命の治療も虚しく、「私にはわからない」という最後の言葉を残して、51歳の生涯を閉じました。人類を救うために戦場のような最前線で命を落とした彼の遺体は、ニューヨークに手厚く葬られました。どんな困難にも負けない「不屈の精神」は、今も千円札の顔を通して私たちに語りかけています。