885年、のちの宇多天皇の長男(敦仁親王)として誕生。実は生まれた時は皇族ではなく、源氏の姓を与えられた一介の臣下でした。しかし、父が天皇に即位したことで親王となり、わずか13歳で第60代天皇として異例の即位を果たします。
父・宇多天皇の遺訓(教え)を守り、藤原氏に権力が集中する「摂政」や「関白」を置かず、自らが直接政治を行う「親政」を行いました。この時代の政治は後世から「延喜の治(えんぎのち)」と呼ばれ、天皇親政の理想的な黄金期として高く評価されています。
当時の社会問題であった、貴族や寺社が違法に土地を私有化する「荘園(しょうえん)」の増加を防ぐため、902年に「延喜の荘園整理令」を発布しました。国家の税収を守り、律令制という法律のルールを立て直そうとした本格的な社会改革でした。
905年、紀貫之らに命じて、日本で初めての天皇勅撰(公式)の和歌集である『古今和歌集』を編纂させました。漢詩(中国の文化)よりも和歌(日本の文化)を重んじたことで、のちの『源氏物語』などへと繋がる華やかな国風文化の基礎が築かれました。
政治の細かなルールや儀式のマニュアルをまとめた巨大な法典『延喜式(えんぎしき)』の編纂を命じました。この書物は、当時の朝廷の儀礼や神社の制度、役所の仕事内容を知る上で、現在でも超一級の歴史資料となっています。
901年、右大臣の菅原道真が「天皇を廃そうと企んでいる」という左大臣・藤原時平のウソの告げ口(讒言)を信じてしまい、道真を九州の大宰府へ左遷してしまいます(昌泰の変)。これが、後に醍醐天皇を苦しめる最大の悲劇の始まりとなりました。
大宰府で道真が失意のうちに亡くなると、都では不吉な出来事が連発します。道真を追い落とした張本人である藤原時平が39歳の若さで謎の狂死を遂げ、さらに醍醐天皇の皇子(跡継ぎ)たちも次々と早死に。「道真の怨霊の祟りだ!」と都は恐怖に包まれました。
930年の夏、干ばつのため天皇の住まいである清涼殿で雨乞いの会議を開いていたところ、突如として激しい雷雨となり、なんと清涼殿に落雷!目の前で多くの側近たちが黒焦げになって即死するという、日本史上類を見ない大惨事が発生しました。
目の前で重臣たちが雷に打たれて焼け死ぬという凄惨な光景を目撃した醍醐天皇は、あまりの恐怖とショックで寝込んでしまいます。「ついに道真の怨霊が自分を殺しに来た…」と怯えながら、急速に体調を悪化させていきました。
落雷事件からわずか3ヶ月後、病から回復することなく、急遽息子(朱雀天皇)に譲位して出家した直後に46歳で崩御しました。文化や政治において「理想の君主」として輝かしい功績を残しながらも、最後は怨霊の恐怖に呑み込まれた悲劇的な生涯でした。