1596年、肥前国(現在の佐賀県)で陶工の家に生まれました。幼名は喜三右衛門(きざえもん)。この時期、朝鮮から渡来した陶工・李参平(りさんぺい)が有田で良質な磁器の原料(泉山磁石場)を発見し、日本で初めての本格的な磁器(有田焼)の生産が始まろうとしていました。
当時の有田焼は、白い素地に青い顔料(呉須)で絵を描く「染付(そめつけ)」が主流でした。しかし彼は、「中国の磁器のように、赤や緑、黄色を使ったもっと色鮮やかで美しい器を作りたい!」という強い情熱を抱き、色絵(赤絵)の研究に没頭し始めます。
長崎で中国人陶工から「赤絵」の調合や焼き方のヒントを聞き出します。しかし、それだけですぐに成功するほど甘くはありませんでした。日本の土と絵の具を使い、窯の温度を絶妙にコントロールする技術は、自分自身の力で一から見つけ出さなければならなかったのです。
何度も何度も窯を焚き、家財を売り払ってまで研究を続けましたが、どうしても美しい赤色が出ません。ある夕暮れ時、庭に実っていた「夕日に照らされて真っ赤に輝く柿の実」を見た彼は、「あの美しい赤を器に焼き付けたい!」と強烈なインスピレーションを受けました。
1640年代、数え切れない失敗の果てに、ついに燃えるような美しい赤絵の焼成に成功します!その見事な柿色の赤絵を見た鍋島藩主は深く感動し、「今日からお前は『柿右衛門』と名乗るがよい」とその名を賜ったという伝説が残されています(諸説あり)。
赤色を完成させた彼は、次に「どうすればこの赤が一番美しく見えるか」を追求しました。そして、少し青みがかった白ではなく、まるでお米のとぎ汁のような温かみのある乳白色の素地「濁手(にごしで)」を開発!これが柿右衛門の赤を極限まで引き立たせる最高のキャンバスとなりました。
器の全面を模様で埋め尽くすのではなく、濁手の美しい白い「余白」をたっぷりと残し、そこに繊細な筆遣いで花や鳥、風景を優雅に描く独自のスタイルを確立しました。これが、現在まで連綿と受け継がれる世界に誇る「柿右衛門様式」の誕生です。
彼が作り上げた美しい色絵磁器は、伊万里港から出荷されたため「伊万里焼(IMARI)」と呼ばれました。オランダ東インド会社(VOC)を通じてヨーロッパへ輸出されると、そのオリエンタルで優雅な美しさは、たちまちヨーロッパ中の王侯貴族の心を鷲掴みにしました!
ヨーロッパの貴族たちは、宮殿の部屋を柿右衛門の磁器で埋め尽くすほど熱狂しました!あまりの人気に、ドイツの「マイセン磁器」やフランスの「シャンティイ磁器」などは、必死になって柿右衛門のデザインと色使いを完全コピー(模倣)した作品を大量に作っていたほどです。
1666年、71歳で偉大な生涯を閉じますが、彼が一代で築き上げた技術と魂は一子相伝で受け継がれました。途中、濁手の技術が途絶える危機もありましたが、後の代が執念で復活させ、現代の第15代酒井田柿右衛門に至るまで、約400年にわたりその奇跡の美しさを世界に発信し続けています。