1200年、京都の最高位の貴族(内大臣・久我通親)の息子として生まれるという超絶エリートでした。しかし、3歳で父を、8歳で母を亡くすという悲劇に見舞われ、立ち上るお香の煙を見て「世の無常」を深く悟り、比叡山での出家を決意します。
比叡山延暦寺で天台宗を学びますが、彼の天才的な頭脳は一つの巨大な疑問にぶつかります。「本来、人は誰もが生まれながらに仏性(悟り)を持っているというのに、なぜ皆あんなに血を吐くような修行をしなければならないのか?」。この疑問が彼を突き動かします。
疑問の答えを求めて24歳で宋(中国)へ渡海。到着した船の中で、修行僧の食事を作る役職の老人(典座:てんぞ)と出会います。「なぜ経典を読まずに料理ばかりしているのか」と問う道元に、老人は「あなたはまだ修行の何たるかを分かっていない」と一喝し、道元に衝撃を与えました。
中国中の寺を巡り、天童山でついに真の師・如浄(にょじょう)と出会います。ある日、座禅中に隣の僧が居眠りをしたのを見た如浄が「座禅は身心脱落(心身の執着を捨て去ること)である!」と怒鳴った瞬間、道元はハッと悟りを開き、長年の疑問が氷解しました。
中国での厳しい修行を終えて帰国する際、他の僧侶がたくさんの経典や仏具を持ち帰る中、道元は「空手還郷(くうしゅげんきょう:手ぶらで故郷に帰る)」の言葉通り、物質的なものは一切持たず、ただ「純粋な禅の教え」だけを心に刻んで帰国しました。
帰国後、京都の深草に「興聖寺(こうしょうじ)」を建立します。ここは日本で初めて、ひたすら座禅に打ち込むための専用の道場(僧堂)を備えたお寺でした。道元の純粋な教えに惹かれ、多くの優秀な修行僧が集まり始めます。
彼の教えの絶対的な核が「只管打坐(しかんたざ)」です。「悟りを得るために座るのではない。正しく座禅をしているその姿そのものが、すでに仏の姿(悟り)なのだ」とし、目的を持たずにただひたすらに坐り抜くことの尊さを説きました。
道元の教えが広まると、京都の比叡山などから激しい迫害を受けます。世俗の権力争いや名声を心底嫌った道元は、パトロンであった波多野義重の招きに応じ、都を捨てて雪深い越前国(福井県)の山奥へと拠点を移しました。
越前の地に「永平寺(えいへいじ)」を開山し、修行の場としました。時の最高権力者である鎌倉幕府の北条時頼から「鎌倉に来て大きなお寺を開いてほしい」と手厚く招待されますが、道元は権力に擦り寄ることを嫌い、あっさりとこれを断っています。
日々の生活(食事や掃除など)すべてが修行であると説き、その深遠な思想を日本語で記した大著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を執筆。これは日本仏教史上最高の哲学書と評されています。1253年、病により54歳でその純粋すぎる生涯を閉じました。