1834年、武蔵国(東京都調布市)の裕福な農民の家に生まれました。幼い頃の名前は「勝五郎」といいます。当時は身分制度が厳しく、農民は武士になれませんでしたが、勝五郎は武士への強い憧れを抱いていました。15歳の時に剣術の流派である「天然理心流(てんねんりしんりゅう)」の道場に入門すると、メキメキと腕を上げ、その才能と真面目な人柄が道場主の目に留まり、なんと近藤家の養子として迎えられることになります。
たくましく成長した近藤は、天然理心流の4代目を継ぎ、江戸(東京)で「試衛館(しえいかん)」という道場の主となります。この道場には、農民出身ながら幼なじみで喧嘩最強の土方歳三(ひじかた としぞう)や、天才的な剣の腕を持つ沖田総司(おきた そうじ)など、のちの新選組のコアメンバーとなる熱い若者たちが集まっていました。身分に関係なく、剣の腕と志で結ばれた彼らは、強い絆で結ばれた最高のチームでした。
1863年、江戸幕府が「将軍様が京都へ行くための護衛(浪士組)を募集する!」というお触れを出します。「ついに俺たちも武士として国のために働けるぞ!」と大喜びした近藤と試衛館の仲間たちは、すぐにこれに応募して京都へ向かいました。しかし、京都に着いた途端に浪士組のリーダーが「実は幕府のためではなく、天皇のために戦う部隊にする!」と裏切り宣言。近藤たちはこれに反発し、京都に残って幕府のために働く道を選びます。
京都に残った近藤たちは、京都の治安を守る京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり)のお預かりとなり、「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を結成します。しかし、グループ内には芹沢鴨(せりざわ かも)という非常に乱暴で問題を起こすもう一人のリーダーがいました。近藤と土方は「このままではグループがダメになる」と苦渋の決断を下し、芹沢を暗殺。組織を一つにまとめ上げ、強力な体制を作り上げました。
芹沢一派を粛清し、近藤を単独の局長(トップ)、土方を副長とする体制が固まりました。そして、天皇を警護する戦い(八月十八日の政変)での活躍が認められ、ついに新選組という正式な名前をもらいます!「誠」の文字が染め抜かれた赤い旗を掲げ、浅葱色(水色)のだんだら模様の羽織を着た新選組は、京都の町に潜む過激な倒幕派(幕府を倒そうとするテロリスト)を取り締まる、最強の警察組織として恐れられました。
1864年、新選組の運命を決定づける池田屋事件が起こります。過激派の志士たちが「京都に火を放ち、天皇を連れ去る」という恐ろしいテロ計画を企てていました。情報を掴んだ近藤は、わずか数名の隊士を連れて敵の隠れ家である旅館「池田屋」に突入!「御用改めである!」の掛け声とともに激しい斬り合いとなり、見事にテロ計画を未然に防ぎました。この大活躍により、新選組の名は日本中に轟き渡りました。
池田屋事件やその後の禁門の変での活躍により、近藤勇はついに念願の「幕臣(幕府の正式な家来)」に直参として取り立てられます。農民の出身から、江戸幕府のトップクラスの家臣にまで登り詰めたのです!大名と肩を並べるほどの身分となった近藤は、武士以上の誇りを持ち、幕府への絶対的な忠誠心をさらに強くしていきます。新選組の隊士も200人を超え、まさに組織の最盛期を迎えました。
しかし、時代は彼らの思いとは逆の方向へ進んでいきます。1867年、将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返す「大政奉還」を行い、江戸幕府が事実上終わりを告げました。近藤たちは新しい政府軍(薩摩藩・長州藩など)から「古い時代の勢力」として敵視されるようになります。そして1868年、ついに旧幕府軍と新政府軍が激突する鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)が勃発し、新選組も最新兵器の前に大きな敗北を喫してしまいます。
江戸に退却した近藤は、名前を「大久保大和」と変え、「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として再び甲府(山梨県)へ出陣します。しかし、すでに時代は近代的な鉄砲や大砲の戦争に移り変わっており、剣術を中心とする新選組の戦い方は全く通用しませんでした。勝沼の戦いなどで新政府軍にボロ負けし、古くからの仲間たちも次々と命を落としたり、離脱したりと、新選組は崩壊の危機に追い込まれていきます。
1868年4月、千葉県の流山(ながれやま)に陣を敷いていた近藤のもとに、新政府軍が大軍で迫ります。「これ以上仲間を死なせるわけにはいかない」と覚悟を決めた近藤は、土方歳三らを逃がし、自らは大久保大和と名乗って単身で新政府軍に投降しました。しかし正体がバレてしまい、武士としての切腹も許されず、東京の板橋で斬首(首切り)の刑に処されました。享年35歳。最後まで幕府への忠誠と「武士としての誠」を貫き通した壮絶な生涯でした。