「日本のシェイクスピア」とも称される、江戸時代(元禄文化)を代表する天才劇作家です!武士の家に生まれながらもドロップアウトし、京都で公家に仕えて深い教養を身につけた後、演劇の世界へ飛び込みました。坂田藤十郎のための歌舞伎の脚本や、竹本義太夫のための人形浄瑠璃(文楽)の脚本を数多く執筆し、上方(関西)の演劇界を大いに盛り上げます。特に、歴史上の事件を扱う「時代物」と、当時の庶民のリアルな日常や事件を扱う「世話物」という二つのジャンルを確立した功績は絶大です。実際に起きた心中事件をわずか数週間で舞台化した『曽根崎心中』は空前の大ヒットとなり、社会現象を巻き起こしました!さらに、台湾の英雄をモデルにした『国性爺合戦』は17ヶ月の超ロングランを記録。「芸術は虚と実の皮膜(紙一重の境目)にある」という「虚実皮膜の論」を唱え、日本の大衆演劇を世界最高峰の文学芸術へと押し上げた、伝説的なクリエイターのストーリーです!
1653年、越前国(福井県)の吉江藩に仕える武士の次男として生まれました。幼名は次郎吉。しかし、彼が十代の頃に父が浪人となって一家で京都へ移り住んだため、近松も武士としての身分やエリートコースから外れ、全く別の生き方を模索することになります。
京都に出た近松は、朝廷の公家(一条家など)に奉公するようになります。ここで古典文学や和歌、日本の歴史などの深い教養を徹底的に身につけました。さらに京都の豊かな町人文化に触れたことが、後の劇作家としての圧倒的な語彙力と表現力の源泉となりました。
やがて演劇の魅力に取り憑かれた彼は、浄瑠璃や歌舞伎の作者として活動を始めます。当時、京都で絶大な人気を誇っていた歌舞伎の名優・坂田藤十郎のために数多くの台本を執筆。藤十郎のリアルで柔らかな演技(和事)の魅力を最大限に引き出し、名コンビとして名を馳せました。
もう一人の運命の相手が、力強く情熱的な語り口で大阪を熱狂させていた浄瑠璃太夫(語り手)の竹本義太夫です。近松は彼のために『出世景清』という画期的な作品を書き下ろし、これが大ヒット!ここから人形浄瑠璃(文楽)の世界に革命を起こしていくことになります。
それまでの演劇は、歴史上の英雄や貴族の物語(時代物)ばかりでした。しかし近松は、当時の市井の町人たちが引き起こした実際の事件(心中や殺人、借金苦など)をいち早く題材にした「世話物」という全く新しいジャンルを開拓し、庶民のリアルな悩みを舞台に乗せました。
1703年、大阪の曽根崎の森で実際に起きた若い男女(醤油屋の手代・徳兵衛と遊女・お初)の心中事件を、なんとわずか数週間後に『曽根崎心中』として舞台化!リアルな人間ドラマと美しすぎる台詞回しにより、劇場が連日満員になるほどの空前の大爆発ヒットを記録しました。
『曽根崎心中』や『心中天網島』などの心中物があまりにも美しくドラマチックに描かれたため、現実世界でも影響を受けて心中するカップルが続出し、大きな社会問題になってしまいます!ついには幕府から「心中物の上演禁止令」が出されるほどの凄まじい影響力でした。
彼は世話物だけでなく、時代物(歴史劇)でも大傑作を生み出します。明(中国)の復興のために戦った実在の英雄・鄭成功をモデルにしたエンタメ巨編『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は、なんと17ヶ月間も連続で上演されるという、日本の演劇史上かつてない驚異的なロングランを記録しました。
晩年、近松は「芸術というものは、全くの嘘(虚)と、生々しい現実(実)の、ほんの紙一重の境目(皮膜)にあるからこそ人の心を打つのだ」という『虚実皮膜の論』を唱えました。ただの見世物だった大衆演劇を、高い芸術性と文学性を備えた「総合芸術」へと昇華させたのです。
1725年に72歳でこの世を去るまで、100編以上の浄瑠璃と多数の歌舞伎脚本を書き上げました。武士の道徳観(義理)と人間としての素直な感情(人情)の板挟みになって苦悩する人々の姿を見事に描き出した彼の作品は、今も歌舞伎や文楽の最高傑作として世界中で上演され続けています。