室町幕府の第5代将軍。第4代・足利義持の長男として、周囲の大きな期待を背負って17歳でトップの座に就きました。しかし、生まれつき非常に体が弱く、実権はお父さんに握られたままの「お飾りの将軍」でした。体が弱いのに大のお酒好きで、お父さんから禁酒令を出されるほど。結局、将軍として独自の活躍をする機会がないまま、わずか19歳という若さでこの世を去ってしまった、とても儚く悲劇的な少年将軍のストーリーです。
1407年、第4代将軍・足利義持の長男(幼名:千寿丸)として京都で誕生します。室町幕府の全盛期を過ぎたとはいえ、名門である足利将軍家の正統な跡継ぎです。お父さんや周りの大人たちから「次の将軍はこの子だ!」と大きな期待を一身に背負い、次期トップとしての特別で厳格な教育を受けて育ちました。
しかし、彼には大きな問題がありました。それは、生まれつき非常に体が弱かったことです。幼少の頃から度々重い病気にかかって寝込んでしまい、周りの大人たちは常に彼の健康状態にハラハラと気を揉んでいたと言われています。次期将軍としてのプレッシャーと闘いながら、病魔とも闘わなければならない苦難の日々でした。
1423年、お父さんの義持が引退して「大御所」となったことに伴い、義量はわずか17歳(数え年)という若さで第5代征夷大将軍に就任します!足利将軍家の若きトップとして華々しく祭り上げられましたが、病弱な彼に日本中をまとめる激務が務まるのか、幕府内には不安の空気も漂っていました。
将軍に就任したとはいえ、政治の実権はすべて「大御所」であるお父さんの義持や、有力な守護大名たちにガッチリと握られたままでした。義量自身が自分の考えで独自のルールを作ったり、政治を動かしたりすることはなく、あくまでお父さんのサポートを受ける「お飾りの将軍」としての役割にとどまっていました。
病弱で体が弱かった義量ですが、なんと無類の「お酒好き」という困った一面がありました!体を壊すほど大酒を飲んでベロベロになってしまうため、心配したお父さんの義持から「これ以上お酒を飲んではダメだ!」と厳しく禁酒を命じられることもあったほどです。重すぎるプレッシャーや、お飾りの将軍であるストレスを、お酒で必死に紛らわそうとしていたのかもしれません。
自分の思い通りに政治ができない中でも、将軍としての仕事はこなさなければなりません。南朝の残党の動きや、農民たちの反乱(土一揆)の兆候など、各地の不穏な動きに対して、将軍として幕府の軍隊を派遣するための正式な命令書(御教書)を発行するなど、形式的な手続きにはしっかりと関わっていました。
将軍になってからも病気がちで体調を崩すことが多かったため、幕府の役人や朝廷の貴族たちは大慌てです。「どうか将軍様の病気が治りますように!」と、北野天満宮や石清水八幡宮など、日本中の有名なお寺や神社で何度も大規模なお祈り(加持祈祷)を行わせました。国を挙げて彼の健康の回復が願われていたのです。
しかし、必死のお祈りも虚しく、病魔は日に日に若き将軍の身体を容赦なく蝕んでいきました。自らリーダーシップを発揮して歴史に残るような大きな政治的業績を上げる機会もないまま、ベッドで苦しむ日々が続きます。将軍としての在任期間は、ただ時間だけが残酷に過ぎていきました。
1425年、ついに悲劇が訪れます。急性アルコール中毒や持病の悪化など理由は諸説ありますが、義量はわずか19歳(数え年)というあまりにも若すぎる年齢でこの世を去ってしまいました。彼には子供もおらず、ここでお父さん(義持)の直系の血筋が完全に途絶えてしまうという、幕府にとって致命的な大ショックを与えました。
義量の死があまりにも突然で早すぎたため、「次の将軍を誰にするか」という後継者が全く決まっていませんでした!将軍の座が空席になるという大ピンチの中、最愛の息子を失って悲しみのドン底にいたお父さんの義持が、再び大御所として全面的な政治の代行を行うことになります。この後継者不足が、やがて有名な「くじ引き将軍」の誕生へと繋がっていくのです。