足利 義輝 あしかが よしてる

1536年 - 1565年 室町時代後期(戦国時代)
生没年月日: 天文5年3月10日(1536年3月31日) 〜 永禄8年5月19日(1565年6月17日)
出身: 京都府京都市(東山南禅寺) 武将、室町幕府13代征夷大将軍
室町幕府の第13代将軍。塚原卜伝や上泉信綱といった超一流の剣術家から指導を受けた、史上最強の「剣豪将軍」です!ボロボロになった幕府の権威を立て直すため、上杉謙信や武田信玄ら全国の戦国大名の争いを積極的に仲裁(調停)してパワーを発揮しました。しかし、将軍の力が強くなることを恐れた松永久秀らに襲撃され(永禄の変)、最後は自ら名刀を何本も振るって壮絶な最期を遂げた、ドラマチックで熱い魂を持った将軍のストーリーを見ていきましょう!
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わずか11歳での将軍就任

1536年、第12代将軍・足利義晴の長男(幼名:菊棟丸)として誕生します。お父さんの義晴が実力者の三好長慶(みよし ながよし)らと対立して京都から近江(滋賀県)へ逃げた際、「自分が生きているうちに次の世代へ権力を渡しておきたい」というお父さんの決断により、わずか11歳という若さで第13代征夷大将軍の座を譲り受けました。
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度重なる京都追放と近江逃亡

若くして将軍となった義輝ですが、実権は細川晴元や三好長慶といった力のある武将たちに握られていました。彼らの激しい権力闘争に巻き込まれた義輝は、お父さんと同じように何度も京都を追い出されては近江へ逃げ込むという、悔しくて屈辱的なサバイバル生活を味わうことになります。
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三好長慶との和睦と念願の帰京

1552年、義輝はついに宿敵であった三好長慶と仲直り(和睦)し、約5年ぶりに念願の京都への帰還を果たします!この時に名前を「義輝」と改めました。「これからはお飾りの将軍ではなく、自分の手で政治を動かすぞ!」と、将軍としての実権を回復するために積極的に幕府の政治に介入し始めます。
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史上最強!?剣豪将軍としての武芸

失われた武家のトップ(棟梁)としての威厳を取り戻すため、義輝は自らの身体を鍛え上げました。塚原卜伝(つかはら ぼくでん)や上泉信綱(かみいずみ のぶつな)といった、当時日本トップクラスの「剣聖」と呼ばれる剣豪たちから直接指導を受け、義輝自身も達人クラスの圧倒的な剣術の腕前を持っていたと言われています。
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戦国大名間の積極的な調停

義輝は「将軍の権威」を最大の武器として活用します。武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」や、毛利元就と尼子晴久の争いなど、全国の強力な戦国大名同士の激しい戦争に対して「ケンカをやめて仲直りしなさい!」という手紙(御内書)を送り、見事に仲裁(調停)を成功させるなど、将軍としての存在感を大いに発揮しました。
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大名たちへの偏諱(名前)の授与

さらに義輝は、毛利輝元、上杉輝虎(謙信)、伊達輝宗といった有力な戦国大名たちに対して、自分の名前の「輝」や「義」の漢字をプレゼントしました(偏諱:へんき)。これは「私とあなたは仲間だよ」という特別扱いの証です。こうして幕府の権威を高めながら、強力な大名たちを自分の陣営に取り込んでいきました。
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上杉謙信の厚い忠誠と涙

義輝の「幕府を立て直す!」という熱い思いに、誰よりも深く感銘を受けたのが、越後(新潟県)の長尾景虎(のちの上杉謙信)でした。謙信はわざわざ京都まで挨拶にやって来て(上洛)、義輝に対して絶対的な忠誠を誓い、義輝にとってとてつもなく大きな後ろ盾(味方)となりました。二人の間には強い絆が結ばれたのです。
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三好氏・松永久秀との対立激化

義輝が全国の戦国大名と結びついてどんどんパワーアップしていくのを見て、焦ったのが京都を支配していた三好三人衆や松永久秀(まつなが ひさひで)たちです。「将軍が強くなったら、自分たちの思い通り(操り人形)にならなくなる!」。彼らは邪魔になった義輝を排除するための、恐ろしい陰謀を巡らせ始めました。
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テストに出る!永禄の変と襲撃

1565年、ついに悲劇が起きます。三好三人衆や松永久秀の息子(久通)が率いる大軍が、突如として義輝が住んでいるお城(二条御所)を包囲・襲撃したのです!将軍を武力で殺そうとするこの前代未聞の恐ろしいクーデター事件を、歴史のテストにも出る永禄の変(えいろくのへん)と呼びます。
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名刀を振るった壮絶な最期

押し寄せる無数の敵兵に対し、義輝は決して逃げませんでした。足利家に伝わる貴重な名刀を何本も畳に突き立て、敵を斬って刃がこぼれるたびに新しい刀に持ち替えて、自ら鬼神のように奮戦したと伝えられています。しかし最後は多勢に無勢、敵に障子を被せられて討死しました(享年30)。最後まで武士の誇りを貫いた、壮絶すぎる剣豪将軍の最期でした。
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