1358年、第2代将軍・足利義詮の長男として誕生します。お父さんが38歳という若さで急死してしまったため、義満はなんとわずか10歳という若さで第3代征夷大将軍に就任することになりました!最初は子供だったため、お父さんが残してくれた優秀なサポート役(管領)である細川頼之(ほそかわ よりゆき)に政治を助けてもらいながら、将軍としての帝王学を学んで大きく成長していきます。
大人になった義満は1378年、京都の「室町」という場所に、お花がいっぱいの豪華絢爛な新しいお屋敷を建てました。これが「花の御所」です。これ以降、足利将軍家のことを「室町殿(むろまちどの)」と呼ぶようになり、ひいてはこの武家政権全体を「室町幕府」と呼ぶようになりました!義満が建てたお屋敷の名前が、そのまま時代の名前として現代の歴史の教科書にまで載っているなんてスゴイですよね。
1392年、歴史のテストで絶対に出る大偉業を成し遂げます!日本に2人の天皇が存在して激しく争っていた南北朝時代を、約60年ぶりについに終わらせたのです。南朝の天皇から北朝の天皇へ、天皇の証である「三種の神器」を譲らせるという、戦いではなく話し合い(平和的な形)で南北朝の合一(統一)を実現させました。日本中を一つにまとめた義満のパワーとカリスマ性は、ここから最高潮に達していきます。
日本を一つにまとめた義満は、「自分の権力を絶対的なものにするぞ!」と考えます。そのために邪魔だったのが、地方で力を持ちすぎていた有力な守護大名たちでした。義満は、土岐氏や山名氏(明徳の乱)、大内氏(応永の乱)などの強い大名たちをわざと怒らせて反乱を起こさせ、圧倒的なパワーで次々と討伐して潰していきました。逆らう者を徹底的に排除する、まさに最強の独裁者の誕生です。
武士の世界のトップに立った義満は、今度は朝廷(貴族)の世界のトップも狙います。朝廷の役職の階段を猛スピードで駆け上がり、1394年には武士としてはあの平清盛以来となる最高職「太政大臣(だじょうだいじん)」に就任しました!武家だけでなく公家(朝廷)の頂点にも立ったことで、義満は日本の歴史上でも類を見ない、パーフェクトな権力を手に入れたのです。
絶頂期にいた義満ですが、なんとわずか37歳で「将軍はもう辞める!」と宣言し、息子の足利義持(よしもち)に将軍の座をゆずってしまいました。さらに自分は髪の毛を剃ってお坊さん(出家)になり、「道義」と名乗ります。しかし、これは「偉い役職を辞めて自由な立場になり、裏からもっと大きな権力を振るうぞ」という恐ろしい作戦(形式的な引退)でした。実権は死ぬまで彼がガッチリと握り続けていたのです。
出家した義満は、京都の北山という場所に壮大な別荘(北山第)を建てました。そのシンボルが、皆さんもよく知っている黄金に輝く金閣(鹿苑寺)です!きらびやかな金箔が貼られたこの建物は、力強い武士の文化と、優雅な貴族(公家)の文化がみごとに合体したものです。義満がパトロンとなって花開いた、この華やかでキラキラした文化のことを北山文化(きたやまぶんか)と呼びます。
義満は経済の才能もバツグンでした。当時、海を荒らしまわっていた海賊(倭寇:わこう)を弾圧することを条件に、中国(明)と正式な国交を開きます。そして、ニセモノの船と区別するための札(勘合)を使った日明貿易(勘合貿易)をスタートさせました!中国の進んだ品物や大量の銅銭(お金)を輸入することで、幕府に使い切れないほどの莫大な富(利益)をもたらしたのです。
日明貿易を始める際、義満は明の皇帝から「日本国王」という称号をもらいました。これは中国の家来になるという形式上のスタイルだったため、「日本のプライドが傷つく!」と怒る人もいました。しかし義満は、「名目上のプライドよりも、貿易でガッポリ儲かる実利(お金)のほうが大事だ!」と割り切りました。さらに「日本国王」と名乗ることで、天皇をも超える権威を国内にアピールする狙いもあったのです。
晩年の義満は、自分の奥さんを天皇の「准母(お母さん代わり)」にするなど、ついに「天皇家そのものを乗っ取ってしまおう」というとんでもない動きを見せ始めました。しかしその野望の矢先、1408年に51歳で突如として病気で亡くなってしまいます。あまりにも突然の死だったため、「天皇家を守ろうとした人に暗殺されたのでは?」というミステリー(暗殺説)も残っています。日本の頂点を極め尽くした、強大すぎる将軍の最期でした。