1538年、第11代将軍・足利義澄の次男である足利義維(よしつな)の長男として、阿波国(徳島県)で誕生します。彼の一族は四国に住み着いていたため「阿波公方(あわくぼう)」と呼ばれていました。京都の中心からは少し離れていましたが、名門・足利将軍家の由緒正しい血筋を引く者として、四国の地で大切に育てられました。
1565年、歴史を揺るがす大事件(永禄の変)が起きます。京都を支配していた三好三人衆たちが、将軍パワーを取り戻そうとしていた第13代将軍・足利義輝を暗殺したのです。三人衆は「自分たちの言うことをよく聞く(操り人形になる)、代わりの新しい将軍が必要だ!」と考え、阿波にいた義栄を次期将軍候補としてスカウト(擁立)しました。
三好三人衆からの強力な要請と軍事的な支援を受けた義栄は、「ついに私が将軍になる時が来た!」と、四国(阿波)から海を渡って畿内(淡路島から現在の大阪府にあたる摂津国)へと進出します。軍隊を集めて陣地を構え、夢の将軍就任に向けて着々と準備を進めていきました。
しかし、ここで大きな壁が立ちはだかります。将軍になるためには天皇(朝廷)からの正式な任命(宣下)が必要でしたが、朝廷は「義輝様を暗殺した極悪人である三好氏が推薦する人物なんて、絶対に将軍と認めない!」と激しい嫌悪感を示したのです。このため、将軍就任の交渉はズルズルと長引き、大難航してしまいました。
さらに事態は複雑になります。義輝暗殺の首謀者の一人であったはずの松永久秀(まつなが ひさひで)が、なんと仲間であった三好三人衆と大ゲンカを始めます。そして久秀は、義栄のライバルであり義輝の弟である足利義昭(よしあき)を「こっちが本当の将軍だ!」と支持し始めたのです。将軍の座を巡る泥沼の争いが勃発しました。
1568年、三好三人衆が朝廷に対して強烈な圧力をかけたことで、ついに朝廷も折れ、義栄は正式に第14代征夷大将軍に任命されました!阿波公方の家系から初めて将軍の座を射止めた、まさに悲願達成の瞬間です。「これで日本のトップとして君臨できる!」と思った矢先、彼に恐ろしい悲劇が襲いかかります。
将軍の座に就いたのとほぼ同時期に、義栄はなんと背中に「悪性の腫れ物(背疽:はいそ)」ができるという重い病気にかかってしまいます。激しい痛みと高熱でベッドから起き上がることもできなくなり、京都のすぐ手前である摂津国の富田(大阪府高槻市)から、一歩も動けなくなってしまいました。
義栄が病気でウンウンと苦しんでいる最中、最悪の知らせが届きます。ライバルの足利義昭が、尾張・美濃(愛知県・岐阜県)を制した新進気鋭の天才大名・織田信長の強大な軍事力を後ろ盾にして、凄まじい勢いで京都へ向けて大進軍(上洛)を開始したのです!まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの信長軍の前に、義栄サイドはパニックに陥ります。
信長の圧倒的で最新鋭の軍事力の前に、義栄の頼みの綱であった三好三人衆の軍勢は、まるでおもちゃのように次々とボコボコに撃破されてしまいます!「このままでは殺される!」。身の危険を感じた義栄は、京都に入る夢を諦め、病気でボロボロの体を引きずりながら、再び命からがら阿波(四国)へと逃げ帰るしかありませんでした。
1568年の秋、義栄は阿波への逃亡の最中(あるいは到着直後)に、ついに病死してしまいます。享年31。彼は歴代の室町将軍の中で唯一、生きている間に一度も京都(室町)の土を踏むことなく、逃げながら生涯を終えた悲運の将軍として歴史に名を残しました。こうして、時代は織田信長と足利義昭のコンビへと引き継がれていくのです。