足利 義政 あしかが よしまさ

1436年 - 1490年 室町時代中期 - 後期
生没年月日: 永享8年1月2日(1436年1月20日) 〜 延徳2年1月7日(1490年1月27日)
出身: 京都府京都市 武将、室町幕府8代征夷大将軍
室町幕府の第8代将軍。政治にすっかり嫌気がさしてしまい、日本中を巻き込む大戦争である応仁の乱のキッカケを作ってしまった人物です。しかし、政治を放棄して没頭した芸術の世界では、銀閣寺(慈照寺)に代表される、簡素で美しい「わび・さび」の東山文化を築き上げました。茶道や華道など、現代の日本文化のルーツを生み出した、ダメ将軍でありながら最高の文化プロデューサーでもある、不思議な魅力を持った人物のストーリーを見ていきましょう!
スポンサーリンク
⬆️

兄の急死による急な浮上

1436年、第6代将軍・足利義教の三男として誕生します。本来なら将軍になる予定はありませんでしたが、お兄ちゃんである第7代将軍・足利義勝がわずか10歳で急死してしまったため、お母さんや家臣たちに担ぎ上げられ、思いがけず次期将軍としての運命を背負うことになりました。
👑

14歳での第8代将軍就任

1449年、元服して名前を義政と改め、14歳で第8代征夷大将軍に就任します。最初の頃は「おじいちゃん(足利義満)やお父さんのような立派な将軍になるぞ!」と、失われた将軍のパワーを取り戻すために一生懸命に政治に取り組んでいました。しかし、彼を取り巻く環境がそれを許さなかったのです。
💍

日野富子との結婚と近臣政治

名門の日野家から、日野富子(ひの とみこ)を正室(奥さん)に迎えます。しかし、お母さんや富子、そして側近たちが幕府の政治に口を出しまくるようになり、義政が自分で決めたことも「それはダメ!」と反対されるようになりました。自分の思い通りに政治ができないことに、義政は少しずつストレスを溜め込んでいきます。
😩

相次ぐ飢饉と土一揆への絶望

1461年、寛正の大飢饉が起こり、京都だけでも数万人もの人が餓死する大惨事となります。しかし義政は、そんな状況でも自分の豪華なお屋敷(花の御所)の改築に夢中になっていました。さらに、農民たちの反乱(土一揆)も何度も起こり、「もう政治なんてやりたくない!」と完全に意欲を失ってしまいます。
👥

後継者問題と弟・義視の擁立

政治から早く逃げ出したくなった義政ですが、奥さんの富子との間に男の子がいませんでした。そこで、お坊さんになっていた弟の足利義視(よしみ)を無理やり還俗(武士に戻すこと)させて、「次の将軍はお前に任せるから!」と、次期将軍の座を約束してしまいました。
👶

実子・義尚の誕生と泥沼化

ところが、弟を後継者にした翌年(1465年)、なんと奥さんの富子との間に待望の男の子(足利義尚)が生まれてしまいます!「私の可愛い息子を絶対に次の将軍にするわ!」と燃える富子は、有力な守護大名である山名宗全(やまな そうぜん)を味方につけます。一方の弟・義視は細川勝元(ほそかわ かつもと)を頼り、幕府は二つのグループに分かれて激しく対立し始めました。
🔥

テストに出る!応仁の乱の勃発

1467年、将軍の跡継ぎ争いに、他の大名たちの家督争いも複雑に絡み合い、ついに京都を舞台にした大戦争応仁の乱(おうにんのらん)が勃発します!全国の守護大名が東軍と西軍に分かれて激突し、約11年も続いたこの戦いで、華やかな京都の町は無惨な焼け野原となってしまいました。ここから日本は、実力主義の戦国時代へと突入していくのです。
🍵

戦火の中での文化への逃避

京都の町が燃え上がり、武士たちが血みどろの戦いを繰り広げている最中、なんと当事者である義政は、戦火をよそに毎日お酒を飲み、庭造りや芸術に没頭していました!「もう政治なんて知らない、どうにでもなれ」と現実逃避し、将軍としての責任を完全に放棄してしまったのです。
🏯

将軍職の譲渡と東山山荘の造営

1473年、義政はついに念願だった隠居(引退)を果たし、わずか9歳の息子・義尚に将軍の座を丸投げしてしまいます。そして、京都の東山という静かな場所に、自分だけの理想の隠居所(東山山荘、のちの慈照寺銀閣)を建て始めました。政治の世界から完全に身を引き、芸術の世界へとドップリ浸かっていきます。
🌸

銀閣寺と東山文化の開花

義政は、華やかさよりも「簡素さの中にある美しさ(わび・さび)」を追求しました。有名な銀閣寺を建て、茶道、華道、水墨画、そして和室のベースとなる書院造(しょいんづくり)など、現代の日本文化のルーツとなる東山文化を花開かせました。政治家としては最悪と言われましたが、文化プロデューサーとしては超一流の功績を残し、1490年に55歳でこの世を去りました。
スポンサーリンク
スポンサーリンク