1436年、第6代将軍・足利義教の三男として誕生します。本来なら将軍になる予定はありませんでしたが、お兄ちゃんである第7代将軍・足利義勝がわずか10歳で急死してしまったため、お母さんや家臣たちに担ぎ上げられ、思いがけず次期将軍としての運命を背負うことになりました。
1449年、元服して名前を義政と改め、14歳で第8代征夷大将軍に就任します。最初の頃は「おじいちゃん(足利義満)やお父さんのような立派な将軍になるぞ!」と、失われた将軍のパワーを取り戻すために一生懸命に政治に取り組んでいました。しかし、彼を取り巻く環境がそれを許さなかったのです。
名門の日野家から、日野富子(ひの とみこ)を正室(奥さん)に迎えます。しかし、お母さんや富子、そして側近たちが幕府の政治に口を出しまくるようになり、義政が自分で決めたことも「それはダメ!」と反対されるようになりました。自分の思い通りに政治ができないことに、義政は少しずつストレスを溜め込んでいきます。
1461年、寛正の大飢饉が起こり、京都だけでも数万人もの人が餓死する大惨事となります。しかし義政は、そんな状況でも自分の豪華なお屋敷(花の御所)の改築に夢中になっていました。さらに、農民たちの反乱(土一揆)も何度も起こり、「もう政治なんてやりたくない!」と完全に意欲を失ってしまいます。
政治から早く逃げ出したくなった義政ですが、奥さんの富子との間に男の子がいませんでした。そこで、お坊さんになっていた弟の足利義視(よしみ)を無理やり還俗(武士に戻すこと)させて、「次の将軍はお前に任せるから!」と、次期将軍の座を約束してしまいました。
ところが、弟を後継者にした翌年(1465年)、なんと奥さんの富子との間に待望の男の子(足利義尚)が生まれてしまいます!「私の可愛い息子を絶対に次の将軍にするわ!」と燃える富子は、有力な守護大名である山名宗全(やまな そうぜん)を味方につけます。一方の弟・義視は細川勝元(ほそかわ かつもと)を頼り、幕府は二つのグループに分かれて激しく対立し始めました。
1467年、将軍の跡継ぎ争いに、他の大名たちの家督争いも複雑に絡み合い、ついに京都を舞台にした大戦争応仁の乱(おうにんのらん)が勃発します!全国の守護大名が東軍と西軍に分かれて激突し、約11年も続いたこの戦いで、華やかな京都の町は無惨な焼け野原となってしまいました。ここから日本は、実力主義の戦国時代へと突入していくのです。
京都の町が燃え上がり、武士たちが血みどろの戦いを繰り広げている最中、なんと当事者である義政は、戦火をよそに毎日お酒を飲み、庭造りや芸術に没頭していました!「もう政治なんて知らない、どうにでもなれ」と現実逃避し、将軍としての責任を完全に放棄してしまったのです。
1473年、義政はついに念願だった隠居(引退)を果たし、わずか9歳の息子・義尚に将軍の座を丸投げしてしまいます。そして、京都の東山という静かな場所に、自分だけの理想の隠居所(東山山荘、のちの慈照寺銀閣)を建て始めました。政治の世界から完全に身を引き、芸術の世界へとドップリ浸かっていきます。
義政は、華やかさよりも「簡素さの中にある美しさ(わび・さび)」を追求しました。有名な銀閣寺を建て、茶道、華道、水墨画、そして和室のベースとなる書院造(しょいんづくり)など、現代の日本文化のルーツとなる東山文化を花開かせました。政治家としては最悪と言われましたが、文化プロデューサーとしては超一流の功績を残し、1490年に55歳でこの世を去りました。