1434年、第6代将軍・足利義教の長男(幼名:五条丸)として誕生します。有力な後継者として大切に育てられますが、7歳の時にお父さんが赤松満祐に暗殺されるという凄惨な事件(嘉吉の乱)に遭遇します。平和な人生から一転、幕府の大混乱の渦の中へ巻き込まれていきました。
お父さんの急死を受け、幕府の混乱をいち早く収めるために、わずか数え年8歳で足利宗家の家督を相続します。大人たちの都合により、まだ遊び盛りの幼い少年が、次期将軍としての重すぎる責任を背負わされることになりました。
当然、幼すぎる将軍に日本をまとめる政治はできません。そこで将軍のサポート役(管領)である細川持之(ほそかわ もちゆき)が後見人として、政治を全面的に代行しました。将軍のパワーはガタ落ちし、有力な守護大名たちが話し合いで政治を決めるスタイルへと変わっていきます。
お父さんの暗殺と将軍交代の混乱に乗じて、近江や山城(京都周辺)の農民たちが数万人規模で「借金をチャラにしろ!」と京都に押し寄せる嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき)が発生します!幕府はこの圧倒的な勢いに押され、大規模な徳政令(借金の帳消し)を認めるという屈辱を味わいました。
一揆に屈した幕府ですが、武士としてのプライドを取り戻すため、お父さんを暗殺した赤松満祐を討伐する軍隊を編成します。山名宗全(やまな そうぜん/持豊)らの大活躍によって赤松一族を見事に滅ぼし、幼い義勝の将軍としてのメンツを辛うじて保つことができました。
1442年、朝廷から正式に征夷大将軍に任命され、第7代将軍となりました。「花の御所」で儀式などの形式的な仕事をこなす日々を送ります。お飾りの将軍ではありましたが、幕府のシンボルとしての役割を果たしていました。
将軍が幼いことをいいことに、細川氏や山名氏、畠山氏といった有力な守護大名たちが「これからは俺たちの時代だ!」と幕府内での発言力を急速に強めていきます。この時に大名たちが力を持ちすぎたことが、のちの日本を二分する大戦争(応仁の乱)へと繋がる火種となっていくのです。
将軍に就任して間もなく、義勝は赤痢(せきり)や結核などの重い病気に侵され、体調を崩してしまいます。幕府の大人たちは大慌てで、若きトップの健康回復を願って日本中の神社やお寺で何度もお祈り(祈祷)を繰り返しました。
しかし祈りも虚しく、1443年、義勝は数え年10歳(満9歳)というあまりにも短い生涯を閉じます。一説には、「花の御所」で乗馬の訓練中に落馬したケガが原因とも言われています。在任期間わずか8ヶ月という、とても儚い治世でした。
義勝が子供を残さずに急死したため、幕府は再び「次の将軍を誰にするか?」という大問題に直面します。話し合いの結果、同母弟である三男の三春丸(のちの第8代将軍・足利義政)が次期将軍に選ばれることになり、室町幕府はさらなる混乱の時代へと進んでいきます。