足利 義勝 あしかが よしかつ

1434年 - 1443年 室町時代中期
生没年月日: 永享6年2月9日(1434年3月19日) 〜 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日)
出身: 京都府京都市 室町幕府7代征夷大将軍
室町幕府の第7代将軍。恐怖政治を行った第6代・足利義教の長男です。お父さんが嘉吉の乱で暗殺されたため、わずか8歳で将軍の座を継ぎました。しかし将軍になってわずか8ヶ月、満9歳という若さで病死してしまった悲劇の幼少将軍です。短い期間でしたが、彼が将軍だった時に農民たちによる大規模な嘉吉の徳政一揆が起こるなど、幕府の権力がどんどん落ちていく「時代の転換点」に立たされた人物です。
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嘉吉の乱の衝撃と誕生

1434年、第6代将軍・足利義教の長男(幼名:五条丸)として誕生します。有力な後継者として大切に育てられますが、7歳の時にお父さんが赤松満祐に暗殺されるという凄惨な事件(嘉吉の乱)に遭遇します。平和な人生から一転、幕府の大混乱の渦の中へ巻き込まれていきました。
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わずか8歳での家督継承

お父さんの急死を受け、幕府の混乱をいち早く収めるために、わずか数え年8歳で足利宗家の家督を相続します。大人たちの都合により、まだ遊び盛りの幼い少年が、次期将軍としての重すぎる責任を背負わされることになりました。
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管領・細川持之による補佐

当然、幼すぎる将軍に日本をまとめる政治はできません。そこで将軍のサポート役(管領)である細川持之(ほそかわ もちゆき)が後見人として、政治を全面的に代行しました。将軍のパワーはガタ落ちし、有力な守護大名たちが話し合いで政治を決めるスタイルへと変わっていきます。
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テストに出る!嘉吉の徳政一揆

お父さんの暗殺と将軍交代の混乱に乗じて、近江や山城(京都周辺)の農民たちが数万人規模で「借金をチャラにしろ!」と京都に押し寄せる嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき)が発生します!幕府はこの圧倒的な勢いに押され、大規模な徳政令(借金の帳消し)を認めるという屈辱を味わいました。
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赤松氏討伐と父の仇討ち

一揆に屈した幕府ですが、武士としてのプライドを取り戻すため、お父さんを暗殺した赤松満祐を討伐する軍隊を編成します。山名宗全(やまな そうぜん/持豊)らの大活躍によって赤松一族を見事に滅ぼし、幼い義勝の将軍としてのメンツを辛うじて保つことができました。
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第7代征夷大将軍への就任

1442年、朝廷から正式に征夷大将軍に任命され、第7代将軍となりました。「花の御所」で儀式などの形式的な仕事をこなす日々を送ります。お飾りの将軍ではありましたが、幕府のシンボルとしての役割を果たしていました。
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守護大名たちの台頭と火種

将軍が幼いことをいいことに、細川氏や山名氏、畠山氏といった有力な守護大名たちが「これからは俺たちの時代だ!」と幕府内での発言力を急速に強めていきます。この時に大名たちが力を持ちすぎたことが、のちの日本を二分する大戦争(応仁の乱)へと繋がる火種となっていくのです。
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突然の体調不良と発病

将軍に就任して間もなく、義勝は赤痢(せきり)や結核などの重い病気に侵され、体調を崩してしまいます。幕府の大人たちは大慌てで、若きトップの健康回復を願って日本中の神社やお寺で何度もお祈り(祈祷)を繰り返しました。
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わずか10歳での早世と落馬説

しかし祈りも虚しく、1443年、義勝は数え年10歳(満9歳)というあまりにも短い生涯を閉じます。一説には、「花の御所」で乗馬の訓練中に落馬したケガが原因とも言われています。在任期間わずか8ヶ月という、とても儚い治世でした。
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直系血統の危機と義政へのバトン

義勝が子供を残さずに急死したため、幕府は再び「次の将軍を誰にするか?」という大問題に直面します。話し合いの結果、同母弟である三男の三春丸(のちの第8代将軍・足利義政)が次期将軍に選ばれることになり、室町幕府はさらなる混乱の時代へと進んでいきます。
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