1305年、鎌倉幕府の有力な武士(御家人)である足利氏の次男として誕生します。足利氏は源氏の血を引く超名門の家柄でした。のちに鎌倉幕府を倒すために協力した後醍醐天皇(尊治)から名前の漢字を一文字(偏諱)プレゼントされ、「尊氏」と名乗るようになります。エリート武将として育った彼は、やがて日本の歴史を大きく動かす中心人物へと成長していくのです。
1333年、鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇の反乱(元弘の乱)が起きます。尊氏は幕府軍のトップとして天皇を倒すために京都へ向かいました。しかし、途中で「やっぱり天皇の味方になるぞ!」とまさかの裏切り(寝返り)を決断します!そのまま京都にある幕府の重要拠点・六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め滅ぼし、新田義貞らの活躍もあって、ついに約150年続いた鎌倉幕府を滅ぼす大活躍を見せました。
鎌倉幕府が滅んだ後、後醍醐天皇による公家中心の新しい政治、建武の新政(けんむのしんせい)がスタートします。しかし、この政治は貴族ばかりをヒイキして、命がけで戦った武士たちにはご褒美が少ないという不公平なものでした。武士たちの間から「ふざけるな!」と大ブーイングが起こります。そんな不満を持つ武士たちが、「やっぱり武士の気持ちが分かる尊氏様にリーダーになってほしい!」と、尊氏に大きな期待を寄せるようになりました。
1335年、滅んだはずの北条氏の残党が、鎌倉を奪い返すために反乱を起こします(中先代の乱)。尊氏は「鎌倉を助けに行かせてください」と天皇にお願いしますが、許可がもらえません。すると尊氏は天皇の命令を無視して勝手に鎌倉へ向かい、反乱をあっという間に鎮圧しました。そして、そのまま独自の武家政権を作るために動き出し、ついに天皇と敵対する道を選んだのです。
天皇の敵となった尊氏は、天皇側の強い軍隊に負けて、一度は九州まで逃げ延びます。しかしそこで勢力を立て直し、大軍を率いて再び京都へ向けて攻め上がりました。1336年、兵庫県の湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で、天皇側の天才武将・楠木正成(くすのき まさしげ)たちを見事に打ち破り、京都を制圧します!何度負けても立ち上がる、尊氏の不思議なカリスマ性と打たれ強さが爆発した大勝利でした。
京都を制圧した尊氏は、新しく光明天皇(北朝)を天皇の座に就けました。そして1338年、ついに武士のトップである征夷大将軍に任命されます!京都に新しい武家政権、室町幕府を開きました。鎌倉幕府を滅ぼしてからわずか数年で、今度は自分が新しい幕府の初代将軍になったのです。武士たちが待ち望んでいた、武士のための新しい時代がいよいよ幕を開けました。
しかし、平和な時代はすぐにやって来ません。京都を追い出された後醍醐天皇は、「私が本当の天皇だ!」と奈良県の吉野(よしの)へ逃げ込み、別の朝廷(南朝)を作ってしまったのです!尊氏が立てた京都の朝廷(北朝)と、吉野の朝廷(南朝)。日本に「2人の天皇」が存在するという前代未聞の事態になり、ここから激動の南北朝時代の争いがスタートしてしまいます。
南北朝の争いだけでも大変なのに、なんと幕府の内部でも大ゲンカが爆発します!政治を取り仕切っていた尊氏の弟・足利直義(あしかが ただよし)と、有能な執事の高師直(こうの もろなお)が激しく対立したのです。この対立は全国の武士たちを真っ二つに分ける、幕府の史上最大の内紛(観応の擾乱:かんのうのじょうらん)へと発展しました。身内同士で争う、泥沼の権力闘争が始まってしまったのです。
観応の擾乱は、状況が二転三転するややこしい争いでした。ついに尊氏自身が「敵である南朝に降伏する」というプライドを捨てた作戦まで使い、弟の直義を討伐することに成功します。敗れた直義はすぐに急死してしまいました(毒殺されたとも言われています)。幕府を一緒に作ってきた大好きな弟との悲しい決別は、心優しい尊氏の胸に大きな傷跡を残すことになりました。
南北朝の動乱がまだまだ続く中、1358年、背中にできた腫れ物(背疽:はいそ)が悪化し、尊氏は54歳の波乱万丈な生涯を終えます。彼はとても不思議な魅力を持った人物で、戦場では矢が飛んできても「ハハハ」と笑って怖がらず、部下に気前よくどんどん領地をプレゼントしてしまうような寛大で太っ腹なカリスマでした。優しさと決断力を併せ持ち、大混乱の時代を笑顔で駆け抜けた、初代将軍のドラマチックな人生でした!