1630年、福岡藩士の家に生まれました。幼い頃から大変優秀でしたが、我が強すぎたのか、20歳の時に第2代藩主・黒田忠之の怒りを買って浪人(無職)になってしまいます。その後、7年間にわたって医術などを学びながら放浪の時代を過ごすという苦労人でした。
第3代藩主・黒田光之の時代になると、その優秀さを惜しまれて奇跡的に藩への復帰を許されます!さらに京都への遊学(留学)を命じられ、松永尺五や木下順庵といった当時の超一流の学者たちと交流しながら、最先端の儒学や本草学(植物学)を猛スピードで吸収していきました。
当時の儒学(朱子学)は、宇宙の真理や道徳を説くやや「頭でっかち」な学問になりがちでした。しかし益軒は「学問とは、人々の実際の生活に役立つものでなければならない!」と主張。医学、農業、歴史など、現実の生活に直結する「実学」を徹底的に重視しました。
彼の探求心は自然界にも及びます。中国の書物の丸写しではなく、自分自身の足で歩き、目で見て、手で触れた日本固有の植物や動物を分類した『大和本草』を執筆!1362種もの生物を実用的な観点でまとめたこの本は、日本における生物学(博物学)の歴史的な大名著です。
教育者としても超一流でした!彼の著書『和俗童子訓』では、「子供の成長(年齢)に合わせて教え方を変えるべきだ」「ほめて伸ばすことが大切だ」という、現代の教育心理学にも通じる驚くべき先進的な教育論を展開し、寺子屋の教科書などにも大きな影響を与えました。
学問ばかりしていたため、結婚したのはなんと39歳(当時の感覚ではかなりの晩婚)!妻の初(のちの東軒)はまだ17歳でしたが、二人は非常に仲が良く、夫婦で全国各地を旅しながら和歌を詠み交わすなど、江戸時代を代表する理想的な「おしどり夫婦」として知られています。
彼は単なる机の上の学者ではなく、生涯を通じて日本中を歩き回る超アクティブな「旅する学者(フィールドワーカー)」でした。旅行記も多数残しており、自分の目で確かめた地理や風俗の記録は、現代の歴史研究においても極めて貴重な資料となっています。
当時の学術書は難解な漢文で書かれるのが常識でしたが、益軒は「一般の民衆に伝わらなければ意味がない!」と考え、誰もが読める「ひらがな(和文)」を多用して多くの本を書きました。この読者目線の優しさが、彼の著書がベストセラーになった最大の理由です。
1712年、なんと84歳という超高齢で、自らの健康長寿の秘訣をまとめた『養生訓』を出版します!「腹八分目にして食べすぎない」「適度に運動する」「怒りや悲しみを抑え、心をおだやかに保つ」など、現代の予防医学にも通じる超実践的なアドバイスが満載の大名著です。
『養生訓』の根底にあるのは「健康で長生きして、人生の楽しみを長く味わうこと」という究極のポジティブ思想です。1714年に85歳で大往生を遂げるまで、学問も人生も全力で楽しみ尽くしました。人々の幸せと健康を願い続けた、江戸時代最高のヒューマニストの生き様です。