1593年、天下を統一した豊臣秀吉(当時57歳)と、側室の淀殿との間に、大坂城ではなく伏見城で生まれました。幼名は拾(ひろい)。一度は子供(鶴松)を亡くしていた秀吉にとって、待ちに待った奇跡のような跡継ぎの誕生であり、日本中がこのロイヤルベビーの誕生に沸き返りました。
秀吉は幼い秀頼を文字通り「目の中に入れても痛くない」ほど溺愛しました。しかし、その異常なほどの愛情は、悲劇を引き起こします。すでに秀吉の後継者として関白の座に就いていた甥の豊臣秀次が、邪魔者として切腹に追い込まれてしまったのです。秀頼の誕生は、豊臣家の内部に暗い影を落とすことになりました。
1598年、秀吉が病に倒れます。秀吉は死の直前、徳川家康ら五大老を枕元に呼び、「どうか秀頼のことを頼む!」と何度も何度も涙ながらに念を押してこの世を去りました。こうして、わずか6歳の秀頼が、日本の頂点である豊臣家の当主という重すぎる十字架を背負うことになったのです。
1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発します。大坂城にいた秀頼は西軍の総大将として担ぎ上げられますが、戦局は東軍の徳川家康が勝利。家康は豊臣家の領地を大幅に削り、秀頼は「天下人」から「一大名(摂津・河内・和泉の領主)」へと転落してしまいました。
1603年、家康の孫娘である千姫(せんひめ:当時7歳)が、秀頼(当時11歳)のもとへ正室として嫁いできました。これは秀吉が生前に決めていた政略結婚でしたが、二人の仲は非常に良く、仲睦まじい夫婦として大坂城で穏やかな日々を過ごしたと伝えられています。
1611年、家康の呼びかけにより、京都の二条城で家康と秀頼の会見が行われました。家康は「秀頼はただのひ弱なお坊ちゃんだろう」と高を括っていましたが、現れたのは身長約190cm、体重160kgとも言われる堂々たる体格で、教養も礼儀も完璧な超イケメンの立派な青年でした!家康は「このままでは豊臣家が復活してしまう…」と強い危機感を抱いたと言われています。
家康は豊臣家を滅ぼすための口実を探し始めます。1614年、秀頼が再建した方広寺の鐘に「国家安康・君臣豊楽」と刻まれているのを見た家康は、「家と康を切り離して私を呪い、豊臣を君主として楽しもうとしている!」と理不尽すぎる難癖をつけました(方広寺鐘銘事件)。ついに両者の関係は修復不可能となります。
1614年、「大坂冬の陣」が勃発します。秀頼の呼びかけに、真田信繁(幸村)や後藤又兵衛など、徳川に不満を持つ全国の牢人たちが大坂城に集結!彼らの活躍と、真田丸などの強固な防衛設備により、徳川の大軍を相手に見事な防衛戦を展開し、家康を大いに苦しめました。
冬の陣で力攻めを諦めた家康は、「大砲で天守閣を撃つ」などの心理戦に切り替え、秀頼の母・淀殿を脅えさせて和睦を結びます。しかし、和睦の条件であった「城の堀を埋める」という作業を、徳川方は約束を破って二の丸・三の丸の堀まで全部埋めてしまいました!大坂城は、全く防御力のない丸裸の城にされてしまったのです。
翌1615年、再び徳川軍が攻めてきます(大坂夏の陣)。もはや籠城できない豊臣軍は野戦で決死の突撃を行い、真田信繁らは家康の本陣まで迫る大奮戦を見せますが、最後は圧倒的な兵力差の前に敗北。燃え盛る大坂城の中で、秀頼は母・淀殿や側近たちとともに自害し、22歳の若さで壮絶な生涯を閉じました。ここに豊臣家は完全に滅亡したのです。