1537年、愛知県(尾張国)で身分の低い貧しい農民の子として生まれます。しかし「絶対に偉くなってやる!」という野望を抱き、尾張のリーダー・織田信長の雑用係(小者)として働き始めました。凍てつく冬の朝、信長の冷たい草履(ぞうり)を自分のふところで温めて差し出したという有名なエピソードがあります。この機転の良さと、誰からも愛される明るい性格(人たらし)を武器に、彼の果てしない大出世ストーリーが幕を開けます。
1566年、信長から敵地の最前線である美濃国に「お城を建てろ!」という無茶な命令が下ります。他の家臣たちが次々と失敗する中、秀吉は川の上流からあらかじめ組み立てた木材を流し、野盗のような荒くれ者たちをうまくまとめて、なんと一晩で砦を完成させました(墨俣一夜城)。不可能を可能にする圧倒的な行動力とアイデアで信長から絶大な信頼を勝ち取り、一番下っぱの足軽から立派な武将へと大ジャンプを果たしたのです。
1570年、福井県(越前)へ攻め込んでいる最中、味方だった浅井長政が裏切り、織田軍は敵に挟まれる大ピンチに!大パニックの中、秀吉は軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ「殿(しんがり)」という一番危険な任務に立候補します。十中八九死んでしまう撤退戦でしたが、徳川家康たちと協力して血みどろの戦いを繰り広げ、奇跡的に生き延びて京都へ逃げ帰りました。命がけで主君を救った秀吉の評価は、織田家の中でグングン上がっていきます。
織田軍のトップクラスの武将へと出世し「羽柴秀吉」と名乗るようになります。1582年、中国地方の毛利軍と戦った際、沼地に囲まれた備中高松城を攻めることになりました。まともに戦うと味方の犠牲が増えると判断した秀吉は、なんと城の周りに約3キロもの巨大な堤防を作り、川の水を流し込んでお城を湖の底に沈めてしまう「水攻め」を行いました!お金と常識外れのアイデアを使ったスケールの大きさに、敵も味方も度肝を抜かれます。
水攻めの最中、秀吉の陣地に「信長様が本能寺の変で明智光秀に討たれた!」という衝撃のニュースが飛び込んできます。泣き崩れる家臣たちをよそに、秀吉はすぐさま毛利軍と平和条約を結びます。そして、約2万人もの大軍を率いて泥道を猛ダッシュし、なんと数日で京都まで戻ってくるという奇跡の大移動(中国大返し)をやってのけました!悲しみをパワーに変えた狂気とも言える疾走で、主君の仇討ちへと向かいます。
猛スピードで京都へ戻ってきた秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を見事に打ち破ります。「主君の仇を一番に討った男」として、世間の注目は一気に秀吉に集まりました。その後、織田家の次のリーダーを決める「清洲会議」が開かれます。秀吉は信長の幼い孫を抱きかかえて現れ、ライバルの柴田勝家(しばた かついえ)を抑え込んで、強引に跡継ぎとして認めさせました。戦いではなく、見事な政治の駆け引きで織田家の実権を握りしめたのです。
1583年、織田家の実権をめぐり、ついに最大のライバルである柴田勝家と激突します(賤ヶ岳の戦い)。この戦いで秀吉は、加藤清正など自分が手塩にかけて育てた若い家臣たちの活躍もあり、勝家軍を完膚なきまでに打ち破りました。勝家と信長の妹であるお市の方が亡くなったことで、秀吉に逆らう織田家の家臣は誰もいなくなります。貧しい農民からスタートした男が、ついに信長の後継者として天下のトップに名乗りを上げたのです。
力で日本を支配していく秀吉でしたが、「農民出身」という身分の低さが唯一の弱点でした。そこで1585年、なんと天皇に仕える貴族のトップである関白(かんぱく)の座を強引に手に入れます!さらに翌年には天皇から「豊臣」という新しい苗字をもらいました。天皇のパワーをバックにつけたことで「秀吉に逆らう者は、天皇の敵になる」という完璧なシステムを完成させます。もはや日本中に、彼の圧倒的なパワーを止められる人は誰もいなくなりました。
1590年、秀吉は総勢22万人という空前絶後の大軍勢を率いて関東へ攻め込みます。最後まで秀吉に逆らっていた北条氏の小田原城をスッポリと包囲し、山の上に一夜にしてお城を建てて敵のやる気を完全に無くさせました。圧倒的なパワーの前に北条氏はついに降伏。応仁の乱から100年以上続いた血みどろの戦国時代が終わり、ついに秀吉による天下統一が達成されたのです!日本中が平和の喜びに包まれました。
天下人となった彼は、歴史のテストに必ず出る超重要な政策を行います。全国の田んぼの広さや収穫量を統一ルールで測る太閤検地と、農民から武器を没収する刀狩(かたながり)です。これで武士と農民の身分をハッキリ分け、誰も反乱を起こせない仕組みを作りました。しかし晩年は、朝鮮出兵などで苦戦し、昔の明るい面影は失われていきます。1598年、幼い息子の秀頼を家康たちに涙ながらに託し、62歳の波乱万丈な生涯を終えました。