生年は551年頃とされ、政治の実権を握っていた大臣(おおおみ)・蘇我稲目の息子として生まれました。渡来人との結びつきが強かった父の路線を引き継ぎ、大陸の最新技術や文化、そして最先端の宗教である「仏教」を積極的に保護・推進しました。
仏教を国の教えとして広めようとする馬子に対し、「外国の神(仏)を拝めば、日本の神々が怒って疫病が流行る!」と強硬に反対したのが、軍事氏族である大連(おおむらじ)・物部守屋でした。両者は激しく対立し、朝廷を二分する宗教・政治闘争へと発展します。
587年、用明天皇の崩御をキッカケに後継者争いが勃発すると、馬子は先手を打って物部守屋の討伐に動きます(丁未の乱)。若き聖徳太子らと共に大軍を率いて守屋を攻め滅ぼし、最大の政敵を排除したことで、蘇我氏の絶対的な独裁体制が確立しました。
権力を掌握した馬子は、仏教保護のシンボルとして日本で最初の本格的な大寺院「飛鳥寺(法興寺)」の建立に着手します。百済から僧侶や瓦職人、大工などのプロフェッショナルを招聘して造り上げられたこの壮大な寺院は、華やかな「飛鳥文化」の中心地となりました。
馬子は自らの甥である崇峻(すしゅん)天皇を即位させますが、政治の実権を馬子に握られている天皇は次第に不満を募らせます。天皇が自分を排除しようとしていることを知った馬子は、なんと部下の東漢直駒に命じて天皇を暗殺!臣下が天皇を殺害した史上最大の衝撃的事件です。
崇峻天皇暗殺という前代未聞の事態に朝廷はパニックになりますが、馬子はこの危機を乗り切るため、自らの姪であり皆から人望の厚かった額田部皇女を「推古天皇」として即位させました。日本史上初の女性天皇の誕生であり、馬子は巨大なキングメーカーとして君臨しました。
推古天皇の摂政となった聖徳太子(厩戸皇子)と強力なタッグを組み、国家の大改革に乗り出します。「冠位十二階」や「十七条の憲法」を制定して天皇を中心とした官僚制度を整えるなど、単なる独裁者ではなく、新しい国家の形を創り上げる有能な政治家としての顔も持っていました。
国内の改革だけでなく、外交でも大きな動きを見せます。聖徳太子と共に小野妹子らを「遣隋使」として大国・隋(中国)へ派遣。「日出づる処の天子…」で有名な国書を送り、隋の皇帝・煬帝を激怒させながらも、対等な外交関係を結ぼうという強気な国際戦略を展開しました。
620年、国家の成り立ちと蘇我氏の権威を正当化するため、聖徳太子と共同で日本初の歴史書である『天皇記』『国記』を編纂しました。残念ながらのちの「乙巳の変」の際に大半が焼失してしまいますが、国家としての歴史(アイデンティティ)を形作ろうとした画期的な事業でした。
自らの邸宅の庭に大きな池を掘り、その中に小島を築いたことから「嶋大臣(しまのおおおみ)」と呼ばれて栄華を極めました。しかし晩年、先祖の地である葛城の領地を朝廷から私的に譲り受けようとした際、推古天皇からピシャリと拒否されています。絶対権力者でありながら、天皇との絶妙な力関係を保ったまま626年にこの世を去りました。