蘇我 馬子 そが の うまこ

551?年 - 626年 飛鳥時代
生没年月日: 欽明天皇12年(551年)頃※諸説あり 〜 推古天皇34年5月20日(626年6月19日)
出身: 大和国(奈良県) 政治家、豪族
飛鳥時代における蘇我氏の全盛期を築き上げた、日本古代史における最重要にして最恐の政治家・大臣(おおおみ)です!父・蘇我稲目から権力を引き継ぎ、日本に伝来したばかりの「仏教」を強力に保護。日本古来の神々を信仰し仏教に反対するライバル・物部守屋と激しく対立しましたが、587年の「丁未の乱」で武力によって物部氏を滅ぼし、朝廷における絶対的な権力を握りました。日本初の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を建立して飛鳥文化を牽引する一方、自ら擁立した崇峻天皇と対立すると、なんと部下に命じて「天皇を暗殺する」という日本史上最大のタブーを犯した恐るべき権力者です!その後、姪にあたる推古天皇(日本初の女性天皇)を即位させ、聖徳太子(厩戸皇子)と強力なタッグを結成。冠位十二階や十七条の憲法、遣隋使の派遣など、新しい国づくりを力強く推進しました。邸宅の池に島を造ったことから「嶋大臣」と呼ばれ、天皇をも凌ぐほどの栄華を極めた巨大なキングメーカーのストーリーです!
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父・稲目の跡を継ぎ大臣へ

生年は551年頃とされ、政治の実権を握っていた大臣(おおおみ)・蘇我稲目の息子として生まれました。渡来人との結びつきが強かった父の路線を引き継ぎ、大陸の最新技術や文化、そして最先端の宗教である「仏教」を積極的に保護・推進しました。

激突!仏教受容を巡る争い

仏教を国の教えとして広めようとする馬子に対し、「外国の神(仏)を拝めば、日本の神々が怒って疫病が流行る!」と強硬に反対したのが、軍事氏族である大連(おおむらじ)・物部守屋でした。両者は激しく対立し、朝廷を二分する宗教・政治闘争へと発展します。
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丁未の乱!ライバル物部氏を殲滅

587年、用明天皇の崩御をキッカケに後継者争いが勃発すると、馬子は先手を打って物部守屋の討伐に動きます(丁未の乱)。若き聖徳太子らと共に大軍を率いて守屋を攻め滅ぼし、最大の政敵を排除したことで、蘇我氏の絶対的な独裁体制が確立しました。
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日本初!飛鳥寺(法興寺)の建立

権力を掌握した馬子は、仏教保護のシンボルとして日本で最初の本格的な大寺院「飛鳥寺(法興寺)」の建立に着手します。百済から僧侶や瓦職人、大工などのプロフェッショナルを招聘して造り上げられたこの壮大な寺院は、華やかな「飛鳥文化」の中心地となりました。
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前代未聞のタブー!崇峻天皇の暗殺

馬子は自らの甥である崇峻(すしゅん)天皇を即位させますが、政治の実権を馬子に握られている天皇は次第に不満を募らせます。天皇が自分を排除しようとしていることを知った馬子は、なんと部下の東漢直駒に命じて天皇を暗殺!臣下が天皇を殺害した史上最大の衝撃的事件です。
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日本初の女性天皇・推古天皇の擁立

崇峻天皇暗殺という前代未聞の事態に朝廷はパニックになりますが、馬子はこの危機を乗り切るため、自らの姪であり皆から人望の厚かった額田部皇女を「推古天皇」として即位させました。日本史上初の女性天皇の誕生であり、馬子は巨大なキングメーカーとして君臨しました。
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聖徳太子とのタッグと国家改造

推古天皇の摂政となった聖徳太子(厩戸皇子)と強力なタッグを組み、国家の大改革に乗り出します。「冠位十二階」や「十七条の憲法」を制定して天皇を中心とした官僚制度を整えるなど、単なる独裁者ではなく、新しい国家の形を創り上げる有能な政治家としての顔も持っていました。
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大国・隋への挑戦!遣隋使の派遣

国内の改革だけでなく、外交でも大きな動きを見せます。聖徳太子と共に小野妹子らを「遣隋使」として大国・隋(中国)へ派遣。「日出づる処の天子…」で有名な国書を送り、隋の皇帝・煬帝を激怒させながらも、対等な外交関係を結ぼうという強気な国際戦略を展開しました。
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初の歴史書『天皇記・国記』の編纂

620年、国家の成り立ちと蘇我氏の権威を正当化するため、聖徳太子と共同で日本初の歴史書である『天皇記』『国記』を編纂しました。残念ながらのちの「乙巳の変」の際に大半が焼失してしまいますが、国家としての歴史(アイデンティティ)を形作ろうとした画期的な事業でした。
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「嶋大臣」の栄華と、推古天皇の拒絶

自らの邸宅の庭に大きな池を掘り、その中に小島を築いたことから「嶋大臣(しまのおおおみ)」と呼ばれて栄華を極めました。しかし晩年、先祖の地である葛城の領地を朝廷から私的に譲り受けようとした際、推古天皇からピシャリと拒否されています。絶対権力者でありながら、天皇との絶妙な力関係を保ったまま626年にこの世を去りました。
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