生年は正確には不明ですが、飛鳥時代の絶対的権力者であった蘇我馬子の子として生まれました。626年に父・馬子が亡くなると、そのまま朝廷の最高権力者である「大臣(おおおみ)」の地位を受け継ぎ、国政の実権を完全に掌握しました。
628年に推古天皇が後継者を指名せずに亡くなると、次期天皇の座を巡って争いが起きます。蝦夷は聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を力技で排除し、自らに都合の良い舒明天皇を強引に擁立!キングメーカーとしての絶対的な力を誇示しました。
自らの権威を見せつけるため、飛鳥の都を見下ろす「甘樫丘(あまかしのおか)」に巨大な邸宅を構えました。蝦夷の家を「上の宮」、息子の入鹿の家を「谷の宮」と呼び、武装した兵士たちに警護させるなど、まるで自分たちが天皇であるかのような振る舞いを見せました。
さらに権力の暴走は続きます。まだ生きているうちに自分と息子・入鹿のための巨大な墓を造らせ、それを天皇の墓にしか使われない「陵(みささぎ)」という特別な言葉で呼ばせました。朝廷の民や聖徳太子一族の民までを強制的に動員し、人々から大いに反発を買いました。
643年、蝦夷は病気を理由に朝廷の会議を休み、勝手に息子の入鹿へ最高位の冠である「紫冠(しかん)」を与え、大臣の地位を譲ってしまいます。国の正式な役職や身分をまるで「蘇我家の私物」のように扱うこの暴挙は、周囲の貴族たちに強い危機感を与えました。
舒明天皇が亡くなった後も、再び山背大兄王が天皇になるのを防ぐため、舒明天皇の皇后を「皇極天皇(女性天皇)」として即位させました。天皇の背後に立ち、巨大な権力を操る影の支配者として、蘇我氏の栄華はまさに絶頂期を迎えます。
権力を引き継いだ息子・入鹿は、蝦夷以上に独裁的な政治を行います。邪魔な山背大兄王を一族もろとも軍事力で滅ぼして(自害に追い込んで)しまいました。この一線を越えた凶行を知った蝦夷は、「ああ入鹿よ、お前はなんて馬鹿なことをしたんだ!これで蘇我氏も終わりだ」と激しく嘆き怒ったと伝えられています。
645年、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)での儀式の最中、ついに事件が起きます。蘇我氏の独裁に不満を募らせていた中大兄皇子と中臣鎌足らが、入鹿を突如として暗殺!(乙巳の変)。最強の権力者の息子が白昼堂々斬り殺されるという、日本中を揺るがす大事件でした。
息子の暗殺を知った蝦夷は自らの陣地に立て籠もりますが、蘇我氏の横暴に愛想を尽かしていた兵士たちは次々と逃亡。敗北を悟った蝦夷は、館に火を放ち自害します。この時、朝廷の貴重な歴史書である『天皇記・国記』も燃やされましたが、『国記』だけは炎の中から拾い出されて中大兄皇子に献上されました。
蝦夷の死によって、何代にもわたって朝廷を支配した蘇我氏の宗家(本流)は滅亡しました。『日本書紀』では「天皇を蔑ろにした大悪党」として描かれていますが、近年の研究では、彼が外交や国の制度作りにおいて非常に有能な政治家であったことも分かってきており、単なる悪役には収まらない巨大なスケールを持った人物です。