飛鳥時代の最高権力者・蘇我蝦夷の息子として生まれました。若い頃から非常に優秀で、隋(中国)から帰国したエリート僧・旻(みん)の堂で学問を修めました。旻からは「私の弟子の中で入鹿に及ぶ者は誰もいない」と絶賛されるほどの超天才児だったのです。
643年、父の蝦夷から独断で最高位の冠である「紫冠」を授けられ、国のトップである「大臣(おおおみ)」の地位を受け継ぎました。天皇の許可なく勝手に国の最高権力を世襲するという、蘇我氏の権力がいかに絶大であったかを象徴する出来事でした。
父と共に、飛鳥の都を見下ろす甘樫丘に巨大な邸宅(城塞)を築きました。入鹿の家は「谷の宮」と呼ばれ、周囲に堀を巡らせ、門には常に数十人の完全武装した兵士を配置するなど、いつでも戦争ができる軍事要塞のような物々しさでした。
入鹿の悪名を決定づけたのが、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)の討伐です。次期天皇の有力候補であった彼を邪魔に思った入鹿は、大軍を送って斑鳩宮を包囲し、山背大兄王一族を自害へと追い込んでしまいました。
山背大兄王を滅ぼしたという凶報を聞いた父・蝦夷は、「お前はなんという馬鹿なことをしたんだ!自分の命も危うくなるぞ!」と激しく怒り嘆いたと伝わります。この一線を越えた暴挙により、入鹿は朝廷の他の貴族たちから完全に孤立していくことになります。
入鹿が次期天皇として強固に推し進めていたのが、自身の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)でした。彼を天皇にすることで、蘇我氏の権力を未来永劫揺るぎないものにしようという、冷徹で計算高い政治的野望が背後にはありました。
『日本書紀』では「天皇を蔑ろにする大悪党」として描かれていますが、近年の研究では、唐(中国)の強大な軍事的脅威に対抗するため、権力を一つに集中させて中央集権国家を急いで作ろうとしていた「有能で現実的な改革者」であったとも評価されています。
645年6月12日、飛鳥板蓋宮で朝鮮半島からの使者を迎える「三韓の調」という重要な儀式が行われました。入鹿は常に剣を手放さない用心深い男でしたが、この日は俳優(わざおぎ)にそそのかされて剣を外し、丸腰で儀式の場(大極殿)へ入場してしまいます。
儀式が始まると、突如として中大兄皇子や中臣鎌足らが斬りかかってきました!頭や肩を深く斬りつけられた入鹿は、天皇の玉座の前に血まみれで這いつくばり、「私に何の罪があるのですか!」と無実を訴えましたが、ついにその場で無惨に暗殺されました(乙巳の変)。
最強の権力者が白昼堂々暗殺されるという衝撃的な最期でした。入鹿の死の翌日、軍勢に囲まれた父・蝦夷も自害し、長年にわたり絶対的な権勢を誇った蘇我氏の宗家(本流)はここに滅亡しました。彼の死は、日本が天皇中心の国づくりへと舵を切る「大化の改新」への最大のターニングポイントとなったのです。