992年、絶対的な権力者である藤原道長の長男として生まれます。当時の最高権力者の跡取りとして最高の英才教育を受け、12歳で元服すると、父の七光りもあって異例のスピードで朝廷の階段を駆け上がっていきました。
1017年、病気がちになった父・道長から朝廷の最高職である「摂政」の座を譲られ、後に「関白」となります。この時わずか26歳!その後、1067年までの約50年間という途方もなく長い期間、朝廷のドンとして権力を握り続ける「頼通時代」が幕を開けました。
父から譲り受けた京都郊外の宇治の広大な別荘を愛し、そこで盛大な舟遊びや和歌の宴を催しました。そのため彼は「宇治殿」と呼ばれました。日本の風土に合った美しい貴族文化(国風文化)が最も成熟した、華やかで優雅な時代でした。
1052年は、仏教の教えにおいて「お釈迦様の死後2000年が経ち、仏の教えが正しく伝わらず世の中が乱れる時代(末法)が始まる年」と信じられていました。疫病や災害が続いたこともあり、貴族たちは「もうこの世は終わりだ…」と極端な恐怖と不安に陥りました。
末法の世の不安から逃れ、死後に極楽浄土へ行くことを強く願った頼通は、宇治の別荘を寺に改め「平等院」を建立しました。その中心となる阿弥陀堂は、まるで極楽の宮殿のように美しく、屋根に鳳凰が飾られていることから「鳳凰堂」と呼ばれ、現在の10円玉のデザインになっています!
都では優雅な生活が続いていましたが、地方では不穏な空気が漂っていました。1019年に謎の武装集団が九州を襲撃した「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」や、関東での「平忠常の乱」、東北での「前九年の役」など、地方では武力を持った「武士」たちが確実に力をつけ始めていました。
藤原氏の権力の源は「天皇に娘を嫁がせ、生まれた男の子(孫)を次の天皇にする(外戚となる)」ことでした。頼通も自分の娘(嫄子や寛子)を天皇に嫁がせましたが、なんと何度出産しても女の子ばかりで、ついに天皇の跡継ぎとなる男の子が一人も生まれなかったのです!
1068年、頼通の娘を母に持たない後三条天皇が即位します。藤原氏を外戚としない天皇が誕生したことは、実に170年ぶりの異常事態でした。これにより、道長・頼通親子が誇った藤原氏の絶対的な権力(摂関政治)のシステムはガラガラと音を立てて崩れ去ったのです。
完全に政治の実権を失った頼通は、関白の座を退いて愛する宇治の平等院へと引きこもり(隠棲)、出家しました。自分が築き上げた栄華が崩れていくのを目の当たりにしながら、阿弥陀如来に極楽往生を祈る静寂な日々を送りました。
1074年、宇治にて83歳という当時としてはかなりの長寿で静かに息を引き取ります。彼が亡くなった後、後三条天皇の子である白河天皇によって「院政」が始まり、やがて平清盛や源頼朝といった武士の世へと、日本の歴史は激動の時代へ突入していくことになります。