藤原 頼通 ふじわら の よりみち

992年 - 1074年 平安時代中期
生没年月日: 正暦3年(992年) 〜 延久6年2月2日(1074年3月2日)
出身: 平安京(京都府) 公卿、関白
父・藤原道長が築き上げた絶対的な権力を受け継ぎ、約50年間にもわたって平安時代の朝廷のトップ(摂政・関白)として君臨した華麗なる大貴族です!「この世をば…」と詠んだ父の威光を背に、わずか26歳で関白に就任。後一条、後朱雀、後冷泉という3代の天皇を補佐し、国風文化の最盛期を謳歌しました。しかし1052年、世の中が乱れて仏の教えが廃れるという「末法思想(まっぽうしそう)」の時代が到来!不安に駆られた頼通は、宇治にあった広大な別荘を寺に改築し、皆さんも10円玉の裏でおなじみの「平等院鳳凰堂」を建立して、この世に極楽浄土を再現しました。すべて順風満帆に見えましたが、彼には唯一にして最大の弱点がありました。それは「天皇に嫁がせた娘に、男の子(次の天皇)が生まれなかった」ことです!これにより藤原氏の「摂関政治」のシステムは根底から崩れ去り、自らを外戚としない後三条天皇の即位によって権力を失いました。栄華の絶頂と武士の世の足音を同時に聞いた、美しい「宇治殿」のストーリーです!
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絶対権力者・道長の御曹司

992年、絶対的な権力者である藤原道長の長男として生まれます。当時の最高権力者の跡取りとして最高の英才教育を受け、12歳で元服すると、父の七光りもあって異例のスピードで朝廷の階段を駆け上がっていきました。
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26歳の若き関白誕生

1017年、病気がちになった父・道長から朝廷の最高職である「摂政」の座を譲られ、後に「関白」となります。この時わずか26歳!その後、1067年までの約50年間という途方もなく長い期間、朝廷のドンとして権力を握り続ける「頼通時代」が幕を開けました。
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華麗なる宇治殿の優雅な生活

父から譲り受けた京都郊外の宇治の広大な別荘を愛し、そこで盛大な舟遊びや和歌の宴を催しました。そのため彼は「宇治殿」と呼ばれました。日本の風土に合った美しい貴族文化(国風文化)が最も成熟した、華やかで優雅な時代でした。
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恐怖の到来!「末法思想」

1052年は、仏教の教えにおいて「お釈迦様の死後2000年が経ち、仏の教えが正しく伝わらず世の中が乱れる時代(末法)が始まる年」と信じられていました。疫病や災害が続いたこともあり、貴族たちは「もうこの世は終わりだ…」と極端な恐怖と不安に陥りました。
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10円玉でおなじみ!平等院鳳凰堂

末法の世の不安から逃れ、死後に極楽浄土へ行くことを強く願った頼通は、宇治の別荘を寺に改め「平等院」を建立しました。その中心となる阿弥陀堂は、まるで極楽の宮殿のように美しく、屋根に鳳凰が飾られていることから「鳳凰堂」と呼ばれ、現在の10円玉のデザインになっています!
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足元で揺らぐ平和!刀伊の入寇と武士

都では優雅な生活が続いていましたが、地方では不穏な空気が漂っていました。1019年に謎の武装集団が九州を襲撃した「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」や、関東での「平忠常の乱」、東北での「前九年の役」など、地方では武力を持った「武士」たちが確実に力をつけ始めていました。
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最大のアキレス腱!男の子が生まれない

藤原氏の権力の源は「天皇に娘を嫁がせ、生まれた男の子(孫)を次の天皇にする(外戚となる)」ことでした。頼通も自分の娘(嫄子や寛子)を天皇に嫁がせましたが、なんと何度出産しても女の子ばかりで、ついに天皇の跡継ぎとなる男の子が一人も生まれなかったのです!
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摂関政治の崩壊!後三条天皇の即位

1068年、頼通の娘を母に持たない後三条天皇が即位します。藤原氏を外戚としない天皇が誕生したことは、実に170年ぶりの異常事態でした。これにより、道長・頼通親子が誇った藤原氏の絶対的な権力(摂関政治)のシステムはガラガラと音を立てて崩れ去ったのです。
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宇治への隠棲と黄昏の日々

完全に政治の実権を失った頼通は、関白の座を退いて愛する宇治の平等院へと引きこもり(隠棲)、出家しました。自分が築き上げた栄華が崩れていくのを目の当たりにしながら、阿弥陀如来に極楽往生を祈る静寂な日々を送りました。
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巨星墜つ。そして新しい時代へ

1074年、宇治にて83歳という当時としてはかなりの長寿で静かに息を引き取ります。彼が亡くなった後、後三条天皇の子である白河天皇によって「院政」が始まり、やがて平清盛や源頼朝といった武士の世へと、日本の歴史は激動の時代へ突入していくことになります。
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