「この世をば わが世とぞ思ふ…」の歌で有名な、平安時代の貴族社会の頂点に君臨した人物です!娘たちを次々と天皇と結婚させる「摂関政治(せっかんせいじ)」の完成者であり、藤原氏の最も華やかな黄金時代を築き上げました。紫式部や清少納言などの女流文学者が活躍した国風文化の中心人物でもあり、紫式部に『源氏物語』を書くようパトロンとして支援したことでも知られています。彼の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』は、当時の貴族のリアルな生活を知る超一級の歴史資料として世界記憶遺産にも登録されています。権力争いに勝ち抜き、栄華を極めた平安貴族の頂点のストーリーを見ていきましょう!
966年、最高権力者である藤原兼家(かねいえ)の五男として生まれました。道長の上には優秀な兄(道隆や道兼など)が何人もいたため、若い頃は「自分が一族のトップになる」とは誰も思っていませんでした。性格は豪快で度胸がありましたが、最初は目立たない普通の貴族の若者としてキャリアをスタートさせます。
道長の運命を変えたのは、都で大流行した疫病(伝染病)でした。トップに立っていた兄たちが次々と病死してしまったのです!残された道長は、兄・道隆の息子である藤原伊周(これちか)と激しい権力争いを繰り広げます。持ち前の度胸と政治的センスで伊周を蹴落とし、ついに天皇の秘書官トップ(内覧)の座を勝ち取りました。
彼が得意としたのが「娘を天皇のお妃(后)にして、生まれた子供(天皇)のおじいちゃんとして権力を握る」という摂関政治です。道長は長女の彰子(しょうし)、次女の妍子(けんし)、三女の威子(いし)を、次々と天皇の正妻(中宮)にしました。一人の男の娘が三人も后になる「一家立三后(いっかりつさんごう)」という前代未聞の偉業を達成し、権力を不動のものにします。
天皇の心を長女・彰子に向けさせるため、道長は優秀な家庭教師を探していました。そこでスカウトしたのが、『源氏物語』を書き始めていた紫式部です!道長は紫式部に超高級な紙や筆を大量にプレゼントし、執筆を全力でサポートしました。道長という巨大なパトロン(スポンサー)がいなければ、世界最古の長編小説『源氏物語』は完成していなかったかもしれません。
道長は『御堂関白記(みどうかんぱくき)』という日記を残しており、これはユネスコの世界記憶遺産に登録されています。内容は「今日は二日酔いで頭が痛い」「あいつは仕事ができない!」といった愚痴や、漢字の間違い、文字の塗りつぶしなどが生々しく残っています。完璧な権力者ではなく、人間味あふれるリアルな平安貴族の日常を知ることができる超一級の歴史史料です。
1018年、三女の威子が后になったお祝いの宴で、歴史に残る有名な歌を詠みました。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(この世はすべて私のものだ。あの満月のように欠けるところが一つもないのだから)」。ライバルをすべて倒し、栄華を極めた道長の「絶頂期」を象徴する、あまりにもスケールの大きな歌です。
どれほどの権力を握っても、当時の人々は病気や怨霊(おんりょう)、死後の世界を深く恐れていました。道長も晩年は仏教(浄土教)に深く帰依し、極楽浄土へ行けるようにと、莫大なお金をつぎ込んで「法成寺(ほうじょうじ)」という超巨大で豪華なお寺を建設しました。このお寺の名前から、道長は「御堂(みどう)殿」と呼ばれるようになります。
実は道長は犬を可愛がっていました。ある日、法成寺の建設現場に行こうとした道長を、愛犬が「行っちゃダメだ!」と服の裾をくわえて必死に引き留めました。不思議に思って部下に調べさせると、なんと道長を呪い殺すための「呪いのアイテム」がそこに埋められていたのです!愛犬のおかげで命拾いしたという、不思議な伝説が残されています。
晩年の道長を苦しめたのが「飲水病(いんすいびょう)」、現在でいう糖尿病です。のどが異常に渇き、目が見えなくなるという症状に悩まされました。当時は白米に甘い甘葛(あまづら)をかけたり、お酒をたくさん飲んだりと、貴族の食事は非常にカロリーが高く栄養が偏っていました。栄華を極めた最高権力者も、現代人と同じような病と闘っていたのです。
1027年、病が重くなった道長は出家してお坊さんになります。最期の時、彼は法成寺の阿弥陀如来像の指と自分の手を五色の糸で結びました。「どうか私を極楽浄土へ連れて行ってください」と仏様にひたすら祈りながら、読経の声に包まれて62歳の生涯を閉じました。彼が築き上げた藤原氏の黄金時代は、息子の藤原頼通(よりみち)へと引き継がれていきます。