804年、嵯峨天皇の側近として活躍し藤原北家の台頭を決定づけた左大臣・藤原冬嗣の次男として誕生しました。幼い頃から聡明で、一族の期待を一身に背負う超エリートとして宮廷社会に足を踏み入れます。
若き良房の運命を決定づけたのが、嵯峨天皇の皇女である源潔姫(みなもとのきよひめ)を正室に迎えたことです。臣下が天皇の娘を妻にするというのは当時としては異例中の異例であり、これにより皇室との強固なパイプを手に入れました。
842年、嵯峨上皇が崩御した直後、謀反の疑いをかけて橘逸勢(たちばなのはやなり)や伴健璟(とものこわみね)といった有力な政敵を一気に失脚・流罪に追い込みます(承和の変)。これにより、自分の甥にあたる道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子に据えることに成功しました。
天皇の権力を内側からコントロールするため、自身の娘である明子(あきらけいこ)を文徳天皇の后として入内させます。そして彼女が産んだ惟仁親王(のちの清和天皇)を、なんと生後わずか8ヶ月で強引に皇太子に立ててしまいました。
857年、朝廷の最高官位である「太政大臣」に任じられます。太政大臣は「適任者がいなければ空席にする」という特別なポストであり、僧侶であった道鏡の特例を除けば、臣下としては飛鳥時代の藤原仲麻呂以来となる最高権力者への登り詰めでした。
858年、文徳天皇が急死すると、良房は自分の孫である惟仁親王をわずか9歳で「清和天皇」として即位させます。幼い天皇には当然政治ができないため、外祖父(おじいちゃん)である良房が政治の実権を完全に掌握しました。
清和天皇をサポートするという名目で、良房は「摂政(せっしょう)」の座に就きます。それまで摂政は聖徳太子のように「皇族」が就任するものでしたが、良房は「皇族以外(臣下)」として史上初めて摂政に就任するという歴史的ルール変更を行いました。
866年、朝廷の正門が放火される「応天門の変」が勃発します。大納言の伴善男(ばん大納言)が放火の犯人として失脚しますが、良房はこの事件を巧みに利用して伴氏や紀氏といった古くからの名門貴族を朝廷から一掃し、藤原氏の絶対的優位を確立しました。
娘を天皇に嫁がせ、生まれた孫を天皇にし、自らは「摂政(天皇が幼い時の補佐)」や「関白(天皇が大人になった後の補佐)」として政治を支配する。この藤原氏のチートとも言える「摂関政治」の完璧な設計図を描き、実行したのが彼なのです。
良房には跡継ぎとなる実の男子がいなかったため、兄(長良)の息子である藤原基経(ふじわらのもとつね)を養子として迎え、後継者に育て上げました。872年に69歳でこの世を去りますが、彼の創り上げた巨大な権力システムは、基経へと見事に引き継がれていきました。