生年は不明ですが、当時の朝廷で絶対的な権力を握っていた「藤原北家」の血筋に生まれました。大叔父には摂政・関白を務めた藤原基経がいるという、まさに絵に描いたような超エリート貴族の御曹司としてのスタートでした。
当時、瀬戸内海では富を奪い合う海賊たちが大きな社会問題になっていました。純友は、その海賊たちを鎮圧するための地方官僚(伊予の国司・掾)として、京都から伊予国(愛媛県)へと派遣されます。エリート官僚による治安維持ミッションのはずでした。
しかし現地で驚きの展開が待っていました。純友は海賊を討伐するどころか、彼らの不満や苦しい生活に共感し、逆に討伐軍を裏切って海賊たちのトップに立ってしまったのです!都の腐敗した貴族政治への怒りが、彼をアウトローの世界へと導きました。
伊予国の沖合にある「日振島(ひぶりじま)」を秘密基地として要塞化し、瀬戸内海の荒くれ者たちを次々と吸収していきます。その勢力は瞬く間に膨れ上がり、最盛期には1000艘以上もの船を操る、誰も手がつけられない巨大な海賊大艦隊へと成長しました。
ちょうど同じ頃、関東地方では平将門が大反乱を起こし「新皇」を名乗っていました。後世の伝説(『太平記』など)では、かつて純友と将門が京都の比叡山で出会い、「俺は天皇の子孫だから天皇になる。お前は藤原氏だから関白になれ」と東西で同時に反乱を起こす密約を交わしたと語り継がれています。
純友の反乱(藤原純友の乱)が本格化すると、海賊船団は瀬戸内海を我が物顔で暴れ回ります。備前国(岡山県)や讃岐国(香川県)の国府(役所)を次々と襲撃し、京都へ税や食料を運ぶルートを完全に封鎖。京都の朝廷は極度の物資不足とパニックに陥りました。
941年、純友の軍勢はついに西日本の政治と防衛の中心地である「大宰府(福岡県)」を大艦隊で急襲します!激しい戦闘の末に大宰府は陥落し、炎上。国家の重要機関が海賊によって焼き尽くされるという、日本史上かつてない衝撃的な事件でした。
これに震え上がった朝廷は、武芸に秀でた小野好古(おの の よしふる)や源経基(みなもと の つねもと)らを討伐軍として派遣します。大宰府を焼かれた直後の博多湾で、純友の海賊船団と朝廷の正規軍による、日本の歴史上類を見ない大規模な海戦が勃発しました!
激戦の末、小野好古の優れた戦術と圧倒的な兵力の前に、純友の海賊船団は次々と打ち破られていきます。数百艘もの船が沈められ、瀬戸内海を震え上がらせた無敵の海賊艦隊はついに博多湾で壊滅。純友はわずかな部下と共に、故郷である伊予国へと逃亡しました。
伊予国に逃げ帰った純友でしたが、朝廷軍の追手である橘遠保(たちばな の とおやす)に捕縛されてしまいます。京都へ護送される途中に獄死したとも、討ち取られたとも言われています。純友と将門の東西の大反乱(承平天慶の乱)は、貴族の力ではもはや国を治められないことを証明し、武士が歴史の主役へと躍り出る決定的なターニングポイントとなりました。